梅津美治郎は彼らしく痕跡を消すようにして去った 第 2,989 号

 昭和19(1944)年7月、梅津美治郎は参謀総長

に就任する。それは昭和天皇の意思でもあった。

それだけ昭和天皇の信頼が篤かったのだ。

 梅津は昭和20(1945)年6月に軍状を上奏、その

内容に衝撃を受けた昭和天皇は終戦を

決意したと言われる。

 陸軍大学校を首席で卒業したエリートであり

ながら、陸軍の後始末ばかりさせられた男

の「最後の後始末」こそ、ポツダム宣言

および降伏文書調印に至る終戦への道である。

 梅津は、昭和19年(1944)7月に、関東軍

司令官から参謀総長になるのだが、この

とき、長男の美一に対して「また後

始末だよ」と嘆いたという。

 梅津は、これまでの歴史的な大事件に際し、

事が終わってからその処理を任されていた。

第一は、2・26事件。事件後に陸軍次官

となった梅津は、実質的なトップと

して陸軍大将らの予備役編入、反

乱軍将校の迅速な処分など、

冷厳なまでの「粛軍」を行った。

 その存在は、「陸軍の梅津か、梅津の陸軍か」

とまで呼ばれるほどだった。

 第二は、ノモンハン事件。ソ連軍との実質的

な「戦争」に発展した軍事衝突後に関東軍

司令官となった梅津は、頻繁な現地視察

を行い、国境紛争を起こさせなかった。

 第三の後始末が、ポツダム宣言受諾および

終戦処理である。太平洋戦争末期に参謀

総長に就任した梅津は、陸軍の代表と

して阿南惟幾陸軍大臣とともにポツ

ダム宣言受諾に反対していたが、

昭和天皇の「聖断」が下るや、

いっさいの反抗を許さず、終戦に尽力した。

 梅津の風貌は、畏怖を感じさせるところが

あり、また「親分子分」のような派閥に

類する人間関係を作らなかった。

 1913年、成績優秀者に与えられる特典として、

ドイツに軍事研究へ行くこととなった。梅津

の欧州留学は、一時帰国を除いて約8年の

長期間にわたり、ドイツを振り出しに

デンマークやスイスなど、各地で

見聞を深めた。

 梅津は、5年におよぶ関東軍司令官在任中、

ついに1度も国境紛争を起こさせなかった。

歴史において「何かを行なった」功績は

記録されやすいが、「何かを起こさせ

なかった」ことは目立たず、忘れ

られてしまうことが多い。それ

も大きな功績である。

 梅津は関東軍を統御し、まちがいを起こさせ

なかったことで陸軍の期待に応えた。

 書き残すことなく、語ることも少なく、

自らの心の内を見せなかった、帝国

陸軍最後の参謀総長、梅津美治郎

は、彼らしく痕跡を消すように

して去ったのである。

1949年1月8日、帰らぬ人となった。

 「感情を表情に出さない」「大事なことを

話さない」という梅津の性格は、秘密裏に

事を進めるには必須の資質である。

岩井 秀一郎 (著)『最後の参謀総長・

            梅津美治郎』

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  今回も最後までお読みくださり、

      ありがとうございました。感謝!

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