このような危機にこそ人の真価が問われる = 2-2 = 第 2,794 号

 羽柴秀長は、出世いちじるしい兄の裏方として、

つねに矢銭(軍資金)の調達に走り回っている

ため、織田家中のなかには、「あやつは、い

つも銭勘定ばかりしている算盤侍じゃ」と

陰口をたたく者もある。しかし、この男

の地味で着実な仕事がなければ、秀吉

の派手な活動が成り立たぬことを、

半兵衛は見抜いていた。

 半兵衛の目は澄んでいた。人の命など、遅かれ

早かれ、必ず尽きる。その生をいかに華やかに、

晴れやかに飾って散るか、「人生とは、たか

がそれだけのものではないか」と、半兵衛

は腹をくくっている。

 いくさには、戦略も戦術も必要である。その

ために軍師は知恵をしぼる。しかし、いざと

なれば、最後にものをいうのは、「度胸」

しかない。半兵衛は緻密な策謀家である

が、反面、いかなる剛勇の士よりも腹

のすわった一流の勝負師でもあった。

 半兵衛が考える軍師の条件とは、たんに軍学

の知識を持ち、それを応用するというだけ

ではない。もっと大局的に、総合的に、

領国全体の経営を考え、それによっ

て国力を増強し、民の暮らしの

安定をはかる、「民政家」の

手腕にたけていることが

重要であった。かの諸葛孔明もそうであった。

 卓越した民政家であったからこそ、孔明は

他の戦術家たちと一線を画し、その名を

歴史に刻んだといえる。

 官兵衛には、源氏物語や伊勢物語を読んで

育った心根の優しさ、あるいは、父祖から

受け継いだ商人的な合理精神のなせる

わざを備えていた。

 尼子氏は、出雲の大名である。乱世の風雲に

乗じて着々と実力をたくわえ、尼子経久の代

に、京極氏を逐って出雲一国を掌握。下克

上によって、戦国大名にのし上った。以

来、経久は積極的に周辺諸国へ兵を

送って、領土を拡大。山陰、山陽

あわせて11カ国に号令を発する

大大名にまで急成長した。

 尼子氏の発展をささえたのは、「出雲の鉄」

「石見銀山の銀」そして、対朝鮮半島貿易に

よってもたらされた莫大な利益である。し

かし名将とうたわれた経久が没し、その

孫晴久が家督を相続すると、見る

かげもなく衰退していく。

 緊急事態に浮き足立つ官兵衛を竹中半兵衛が

叱咤した。「このような危機にこそ、人の

真価が問われる。どっしりと腹をすえ、

冷静に状況を見定めることだ」

 竹中半兵衛が世を去ったのは、6月13日の

ことである。享年36。秀吉の軍師として、

官兵衛とともに、「張良、陳平」

とたたえられた名軍師の早すぎる死であった。

火坂 雅志 (著)『軍師の門。

     竹中半兵衛と黒田官兵衛』

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  今回も最後までお読みくださり、

      ありがとうございました。感謝!

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