身を捨てる覚悟で子供たちの救出活動に臨んだ先人の生き方 = 2-2 = 第 998 号

 神戸に行けば何か新しいヒントがある

のではないかと考えた私は、毎月3回

ほど石川から神戸に足を運び、市立

図書館に籠もっては勝田船主に

関連する資料の収集に当たりました。

 1日に取るコピーの数は約百枚。

 なかなか核心は掴めないまでも、私の

心は勝田船主の人物像が少しずつ

明らかになっていく喜びに

満たされていました。

 一方、肝心のカヤハラ船長については

全くといってよいほど情報が得ら

れませんでした。

 手始めに「カヤハラ」を漢字変換しな

がら該当人物をインターネットで

検索してみましたが、全く

のお手上げ状態でした。

              ─────

 北室さんは、オルガさんから依頼された

カヤハラ船長の名が茅原基治である

ことを突き止めるまでに2年

の歳月を要しました。

 そして2011年10月、オルガさんは来日し、

岡山県笠岡市の子孫を訪ねて、夢にまで

見た茅原船長の墓参を果たすのです。

■危険な航海を成し遂げた船長の手腕

 800名の子供たちを乗せた陽明丸です

が、3か月の大航海の中でも最大の

難所は最終目的地のフィンランド

に向かうバルト海でした。

 バルト海は第一次世界大戦中、連合国軍

とドイツ海軍が激戦を繰り広げ、おびた

だしい数の機雷が敷設されていました。

 この危険極まりない海を無事

抜けることができるのか。

 すべては茅原船長の腕一つ

にかかっていました。

              ─────

 バルト海航海に臨むに当たって茅原船長

はまず、機雷の実態に詳しい地元の熟

練のパイロット(水先案内人)を

探し出して協力を求めました。

 茅原船長や水先案内人をはじめとする

船員たちは、24時間態勢で目を皿の

ように凝らし全神経を水面に

集中させながら、ゆっくりと

船を進め、約一週間をかけ

て無事コイビスト港に投錨するのです。

 この辺りのいきさつは茅原氏の手記には

詳しく記されていませんが、心身ともに

極限状態を強いられる持久戦だった

ことは想像に難くありません。

 茅原氏はこのような卓越した能力の持ち

主でありながら、一方ではとても優しく

温かい人柄だったことが、彼の手記

からは窺い知ることができます。

              ─────
 
 この茅原船長の言葉のように戦争や

飢餓を経験し、死の恐怖に怯え続けた

子供たちにとって、陽明丸での

3か月間の大航海は文字ど

おり幸福な楽園だったようです。

 赤十字の潤沢な資金によって船内には

食べ物や衣類がふんだんに積み込

まれていたのですから、それ

だけでも別世界でした。

 彼らが帰国後にずっと隠し持っていた

数々の写真からは、船上生活の喜び

が伝わってくるようです。

 「陽明丸」の救出作戦が展開されたのは、

日本人の心にまだ日露戦争の記憶が鮮

明に焼きついている頃でした。

 ロシアに対する反感が根強かったことを

考えても、この大航海がどれだけ勇気

の要ることだったかが分かります。

 北室さんは勝田船主や茅原船長に共通

するものとして「義侠心」を挙げ

られています。

 身を捨てる覚悟で子供たちの救出活動

に臨んだ先人の生き方に、私たち

も学びたいものです。

『致知』2018年5月号【最新号】

             特集「利他に生きる」P36

今回も最後までお読みくださり、

    ありがとうございました。感謝

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