画法の修業だけは怠らなかった北斎 第 2,897 号

 モネ、ゴッホはなぜ北斎に魅せられたのか?

いまなぜ、北斎なのか? 天才画商・林忠正と、

小布施の豪商・髙井鴻山から日本人だけが

知らない真実を解く、圧巻のノンフィクション!

 葛飾北斎(1760~1849)。西洋ではダ・ヴィンチ

と並び称される19世紀最大の画家であり、モネ

・ゴッホなど芸術家へ与えた影響も大きい。

 しかし日本では「子どもの鼻ふき紙」だった

北斎(浮世絵)が、なぜ西洋でここまで価値が

上がったのか。そこには資本主義の光と闇

があった。そして北斎が晩年のアトリエ

とした長野県小布施には何があったのか?

 林忠正と髙井鴻山、二人の男から「いまなぜ

北斎なのか」を解く革新的ノンフィクション! 

 絶滅寸前の浮世絵を救ったのは、ヨーロッパ

文化だった。その中でも最大の人気を誇った

のは葛飾北斎。

 北斎がのちに「世界の北斎」となったのは、

まさにジャポニスムが生まれたこのタイミ

ングで作品がヨーロッパにもたらされ

たからに他ならない。

 葛飾北斎。数多ある浮世絵の中からヨーロッパ

人が北斎に注目したのは、作品の多彩さ、テー

マの多様性、技術の確かさ、そして眼力、

視点の豊饒さからだといわれる。

 90歳という、当時の平均寿命の約2倍を

生きた類まれな生命力と旺盛な好奇心、

そして数奇な歩みの中にその秘密がある。

 北斎は1760年、江戸の貧しい農民

の家に生まれた。

 浮世絵は、版下絵を描く絵師、それを版木に

彫る彫師、摺る摺師の三職人の共同作業だ。

 絵師になる前の10代で「彫師」を経験したのは、

のちの北斎にとって貴重な経験だった。

 34歳で勝川派を離れてから38歳までの4年間。

北斎は師匠もなく名もなく地本問屋を納得さ

せる代表作もなく、苦悩の時代だった。

極貧の中で唐辛子や柱暦を売り歩い

たことすらあったという。

 北斎は群れることを潔しとせず、常に孤高に

して赤貧。多流派を渡り歩き画法だけを貪欲

に漁っていた。つまり北斎は、遅咲きなのだ。

 貧窮人の商いといわれる唐辛子売りに身を

やつしても画法の修業だけは怠ら

なかった北斎。

 北斎は朝まだきから絵筆をとり、

人の寝静まるまで描き続けた。

日々画法の工夫を重ね、

腕がなえ目が疲れ果ててからようやく絵筆を

置き、蕎麦を2杯すすって眠りに就く。

 酒もタバコも茶すら口にしない。本所柳島に

あった妙見菩薩を信仰するようになり、38

歳のときに北斎辰政と号を変えた。

 絵筆一筋の生活を40歳から半世紀続けた北斎

は、生涯でおよそ3万4,000点という膨大な

作品を残した。単純計算しても、1日約

2点を50年描き続けたことになる。

神山 典士 (著)『知られざる北斎』

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  今回も最後までお読みくださり、

      ありがとうございました。感謝!

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