気楽に小腹を満たせる駄菓子として大変親しまれました 第 1,942 号

歴史的な大ヒットとなった『およげたいやき
くん』という童謡がありました。
ある年齢層以上の方は、よくご存じのこと
でしょう。


このたいやき屋のモデルとなった店が東京・
麻布十番にあります。

もともとIT企業の社員だったという
浪花家総本家4代目店主の神戸将守さんは、
伝統の味をどのようにして守り継ごうと
しているのでしょうか。


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昭和50年に発売され、歴史的大ヒットを記録
した童謡『およげ!たいやきくん』。
当時社会現象にもなったこの歌をご存じの方は
多いでしょう。

歌詞に出てくる「みせのおじさん」のモデルと
されているのが、私の親父であり、私で4代目
を数えるたいやき屋「浪花家総本店」の
3代目店主・神戸守一です。


創業は明治42年、浪花(大阪)生まれの大伯父・
神戸清次郎が東京日本橋で「浪花家」を開き、
今川焼きをヒントにたいやきを完成させました。
なぜ鯛だったかと言えば、
本物の鯛は当時の労働者階級には
手の出しにくい縁起物だったからです。


たいやきは、そのような労働者が
気楽に小腹を満たせる駄菓子として、
大変親しまれたのでした。

その後も暖簾は受け継がれ、
現在の麻布十番へ店を移した親父の代で、
たいやきの知名度は全国的になりました。
親父をすごいと思うのは、肝になる餡子は
どの種類の小豆が一番おいしいか、
皮をつくる小麦粉はどれがおいしいかと、
たいやきのすべてを突き詰め磨き上げて
いったことです。

ある意味で親父は、街場の駄菓子に過ぎなかった
たいやきを〝芸術〟の域に押し上げたと言える
でしょう。


若い頃の私と言えば、そんな親父を見て育った
ものの同じ仕事をする気はなく、大学卒業後は
草創期を迎えていたIT業界に就職しました。

ところが昭和58年、25歳の時、親父が日常の
些細な不注意で指を怪我してしまい、
当分は仕事を離れることを余儀なくされました。
それをきっかけに、私は会社を辞める決意を
したのでした。


しかし、根っからの職人だった親父は何も
教えてはくれません。


神戸さんのその後の奮闘は、本誌をご覧ください。

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 今回も最後までお読みくださり、

    ありがとうございました。感謝!

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