指導者として欠いてはならない修養を重ね危機に可能な限り対処した 第 2,866 号

 太平洋戦争の敗戦要因についての研究は、歴史

家だけでなく、専門分野を超えて、これまで精

力的に進められてきた。だが、その失策に

ばかり気をとられ、すぐれた能力を発揮

した軍人たちがいたことを我々は忘れ

るべきではないだろう。

 指揮官としての責務を果たしつつも、時局や

組織に振り回されず、人としてあるべき姿を

求め続けた指導者たち――。その人間観や

指導観に学びの視線を向ける良識が、グ

ローバル化の荒波に飲み込まれ、経済

敗戦の様相が色濃くなってきた令和

の日本人に求められているのではないか。

 評伝のスタイルをとりつつ、リーダーに必要な

条件について、有益な示唆を与えてくれる

「不敗」の名将「今村均」の真の姿を、

本書が描き切る。国破れて名指揮官あり。

 今村均という陸軍大将/敗戦と没落、戦時期の

日本と令和日本/現代の視点でみた「今村均」

の資質と能力。

 今村均は、大東亜戦争(太平洋戦争)開戦時に

第16軍司令官として活躍し、最後は要衝ラバ

ウルで第8方面軍司令官として終戦を迎えた

陸軍大将である。

 開戦時、蘭印(オランダ領インドネシア)を攻略

し、温情主義的な統治によって成功を収めた。

 その後はニューブリテン島のラバウルを要塞化

し、徹底的な自給自足体制を整えて連合軍の

反攻に備えた。

 第8方面軍の構築した要塞は連合軍の攻略を躊躇

させるほど強力なものであり、とうとうラバウル

は連合軍の上陸を見ずに戦争の終結を迎えた。

 結果として日本は戦争に敗れてしまったものの、

今村のいるラバウルは最後まで統率を全う

したのである。

 そして、戦争が終わっても今村は指揮官の責任

を放棄しなかった。

 しかし彼は旧部下がパプアニューギニアのマヌス

島の劣悪な環境で収容されているのを

見過ごせなかった。

 今村は、誰もが戻りたかった祖国に帰ってきた

にもかかわらず、志願してマヌス島へと

向かった。

 戦争が終わってオーストラリア軍の管理下に

置かれた後も、将兵に旧制中学校卒業程度の

学力をつけさせるために、一般教養科目の

教科書・資料を編纂させ、部隊ごとに

適任者をもって臨時の教育を行わせた。

 戦争末期、今村はすでに戦後を見据えた指導を

行なっていた。昭和20年6月ごろ、今村は方面

軍の若い中、少尉を集め、戦闘とは直接関係

のない技術教育(講座)を開始した。

 今村均という人間は一見平凡にみえながらも

指導者として欠いてはならない修養を重ね、

大東亜戦争という日本最大の危機に可能

な限り対処した。

岩井 秀一郎 (著)『今村均。敗戦日本の

          不敗の司令官』

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  今回も最後までお読みくださり、

      ありがとうございました。感謝!

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