平和や自由や繁栄は死に物狂いの戦いを経なければ生まれてこない 第 818 号

 松陰の「非常識」さが、歴史を動かす

エネルギーに

 明治維新の狼煙のひと筋は、本州最西端の

長州藩から揚がった。

 三方が海に囲まれた長州藩の萩で松下村塾を主宰

した吉田松陰と、その志を継いだ門下生高杉晋作。

 この二人の若い武士を突き動かしたもの

は、一体何だったのか。

 幕末という激動の中に立たされた二人の若者は、

どんな志を持っていたか。

 本書では、松陰と晋作を中心に、ひたすら日本

の将来を案じ、我が身の危険を承知で突進

していった若き英俊たちの姿を追う。

 吉田松陰の父は学問好きだった。

 幼い松陰とその兄梅太郎を田畑に連れ出し、

四書五経や歴史書などを暗唱口授

しながら農作業をした。

 あるいは、寸暇を惜しんで読書するように、

つねに子供たちを戒めた。

 松陰の教育に熱心だったのは、

叔父の玉木文之進だ。

 玉木は質実剛健をモットーにした、

古武士のような人。

 幼い松陰が読書中に、虫を払いのけた。

 これを見た玉木は、烈火のごとく怒った。

 松陰がいま本を広げてやっている学問は、

「私」のためにやっているのではない。

 身につけた学問を将来、天下国家の

ために役立てるためにやっている。

 いわば「公」のことをやっているのだ。

 その最中に、虫を払うというのは、「私」ごとで

あり、公私混同したことになる、というのだ。

 松陰は、このように私心を捨て去る訓練を

しながら、育てられた。

 武士の人生の大きな課題は、

「滅私奉公」である。

 「勉強は、将来社会の一員として貢献できる

人間になるためにやるんだ。

 だからいま、しっかり勉強しなさい」

 そんな勉強の崇高な「志」を、子供に説くことが

できる大人が、一人でも多くいて欲しいものです。

 松陰は学問の心得として、「学者になっては

ならぬ、人は実行が第一である」とつねづね

塾生に説いていました。

 そして自らも、この教訓を実践してきた。

 松陰の教えを受けた高杉晋作などは、現代から

見ると信じられなぬほど難解な漢文の論策

などを20代の若さで書いてしまう。

 その一方で、芸者をはべらせ、三味線

を弾いて即興の都々逸などを歌って

みせる側面も備えている。

 こうした硬軟あわせ持つ者が、

一流の人物といえそうだ。

 周布政之助は破天荒な高杉晋作を

御せる唯一の上司だった。

 それは周布自身が、破天荒な人物

だったからに他ならない。

 さまざまな改革を断行するため、

周布は狂者を装っていた。

 表面は狂っているように見せかけ、実は心の

中は醒めている「佯狂(ようきょう)」

であった。

 本当の平和や自由や繁栄は、死に物狂いの

戦いを経なければ生まれてこない。

 長州藩の攘夷戦もまた、日本の独立を守る

ため、避けて通ることが許されない、

歴史の陣痛だったのです。

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今回も最後までお読みくださり、ありがとう

            ございました。感謝!

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