かたよらない心、こだわらない心、とらわれない心 第 882 号

 円覚寺派管長の横田南嶺さんは「坐禅は

心を空っぽにする修行である」と説き、

坐禅によって、心はどのように変化

するかを語られています。

 そのお話の一部をご紹介します。

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     橫田 南嶺(臨済宗円覚寺派管長)

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 坐禅をするのは心を空っぽ

にする修行である。

 五蘊を空っぽにする、眼で外のものを

見ない、耳で外の音を聞かないように、

好きだ嫌いだなどと判断をせず、

ただ聞こえてくるに任せる。

 心でもあれこれ考え事をしないようにと

言うのだが、考えるなとは難しいので、

静かに呼吸をしていることに

意識を集中する。

 鼻から息が出ている、鼻から静かに

入っていることだけを見つめる。

 それをただ繰り返すと、だんだん

心が空っぽになってくる。

 すると、ちょうど心が恰も

鏡のように澄んでくる。

 鏡というのは中に映像がない、空で

あり、空であるからこそ、何でも映る。

 静かに坐っていると、逆に何でも

きれいに心に映ってくる。

 『般若心経』は、『大般若経』六百巻

の内容を凝縮したものであると言われ

るので、短い経典だが、内容は

簡単ではない。

 それを、奈良の薬師寺の高田好胤和上は、

何回も何回も『般若心経』を講義されて、

その心を、「かたよらない心、

こだわらない心、とらわれない心、

ひろく、ひろく、もっと

ひろく、これが般若

心経、空の心なり」と喝破された。

 私はまだ小学生の頃、高田和上

の講演を拝聴した。

 深い感動を覚えて、奈良の薬師寺に『般

若心経』や『薬師経』を写経して

納めさせてもらった。

 何にかたよらないのだろうか自分中心

に物を見たり聞いたりして作り上げた

認識にかたよらないのである。

 自分勝手な思いにこだわら

ないのである。

 そんな自分で作り上げた様々な思い

などにとらわれないのである。

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 『致知』  2017年12月号

            連載「禅語に学ぶ」P104

今回も最後までお読みくださり、

    ありがとうございました。感謝!

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