私にしかできない仕事があるはず.自分に自信をつけよう = 2-1 = 第 2,657 号

20歳の時に交通事故で右腕を失った
伊藤真波さん。苦悩の日々を乗り越え、
日本初の義手の看護師という夢を叶えながら、
水泳のパラリンピック選手としても
二大会に出場されています。
「事故はいい勉強になった」と笑顔で語る
伊藤さんの芯の強さは、どこから来るの
でしょうか。転機となった出来事と
これまでの歩みを語っていただきました。

───────────────────

〈伊藤〉 

私がバイクに乗っている時にトラックと衝突し、
右腕がタイヤに絡んで
引き摺られてしまう大事故でした。
一応右腕は残っていたものの、
腕の中に砂利や車のオイルが入り込み、
病院の先生がタワシで必死に掻き出し、
太腿やお腹から筋肉や皮膚を移植する大手術を
何十回も繰り返しました。
顔の損傷も激しく、
私の顔写真を見ながらパズルのように
パーツを元の位置に戻す手術も行われたんです。

痛みのあまり、何でこんなにしんどいの? 
何で私だけ? という思いでいっぱいでした。
友人からメールがきても、
「どうせ他人事でしょ。
私はもうみんなと同じ世界には戻れない。
恋愛もできないし結婚もできない。
これからは隠れて生きていくしかないんだ」

と、人と比べてネガティブなことばかり
考えていました。

(――突然世界が一変してしまった。)

〈伊藤〉 
自分の状態を受け入れられずに、
何度も両親に八つ当たりしてしまいました。

3週間ほど経つと、
右腕の傷口から入った菌により感染症を患い、
右腕を切断せざるを得なくなりました。
「自分はこれから障碍者と呼ばれてしまう」
「家に引き籠って生活するようになるんだ」
と思い込み、不安でいっぱいでした。

(――そういう苦境を
どうやって抜け出されたのですか?)

〈伊藤〉 
母ですね。
実は、バイクに乗ることを
母はずっと反対していたんです。
でも、昔から私は自分勝手で、
「バイクに乗っても
誰にも迷惑かけていないでしょ?」
と家族を顧みずに、友達と遊んだり
バイトに明け暮れる生活をしてきました。
「いい加減にしなさい」と母から何度叱られ
ても、全く聞く耳を持っていなかった。

そんな母が、私の病室に毎日明るく
面会に来てくれる一方で、
先生から私の病状を聞かされている時は、
いまにも泣き出しそうな顔をしていたんです。
その顔がいまだに忘れられません。

親孝行一つしていない自分が、
このまま両親の面倒になるわけにはいかない。
腕を切断して、新しい人生を歩み始めよう。
まだ20歳だから人生はこれからだ。
そう決意し、実家のある静岡県を出て、
義手をつくるために兵庫県神戸の
リハビリ専門病院に転院しました。

(――自ら親元を離れたのですね。)

〈伊藤〉 
11月に事故に遭い、2月に急性期病院を退院
して、3月末には神戸のリハビリの病院に
転院というスケジュール感でした。

片腕って1・5~2キロくらいあるので、
それがポンッとなくなると、
体全体のバランスが取れなくなるんですね
切断後、常に肩が上がってしまうし、
真っすぐ歩くこと自体が難しくなりました。
自分では直線に進んでいるつもりでも、
いつの間にか車道の真ん中を歩いていて、
クラクションを鳴らされてしまった、
なんてことがよくありました。


※本記事は月刊『致知』2020年10月号
特集「人生は常にこれから」より
一部抜粋・編集したものです

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  今回も最後までお読みくださり、

      ありがとうございました。感謝!

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