宇宙からの預かりもの (3-2) 第 150 号

 私達は、この世に生を受けて以来、衣類とか

宝石とか電化製品などの見回り品から、財産、

肩書、権力の類(たぐい)に至るまで、いろ

いろなものを所持してきましたが、それ

でもまだ足りず、もっとたくさん、よ

り良いものを所持したいと願っています。

 しかし、そうしたものを所持して「もうこれ

で十分だ」と満足する人は少なく、次から次

へと、新たな欲望がわき、そのとどまると

ころを知らないかのようで、気がついた

時には、すでに人生の終着駅に着いて

しまい、すべての所持品をこの世に

置き去りにして、あの世に行か

なければなりません。

 よくよく考えてみると、この世で私達が獲得

したものは、生きるために必要な衣・食・住

などの必需品以外は、ただ自分の身辺を飾

るアクセサリ-にすぎず、それらを所持

することは、ある程度自尊心を満足

させても度が過ぎると、誇りに

なるどころか埃となり、財産

税や贈与税の対象となって

後継者を苦しめかねません。

 もし、そうしたものは、私達のこの世での一時

預かり品であり、世間のために有効に使う手段

を自分が託されているのだ、という発想が出

来れば、どれほど気楽でよいでしょう。

 禅者の澤木興道(さわきこうどう)師

(1880-1965)はかって、

 「人生のしあわせは金持ちになることではない。‥‥

 名誉や金は人生の最終価値ではないのだ。

  人生でしあわせなことは、人のためになることだ。

 人のために一生を捧げた者は非常に尊い‥‥」

 と語っています。

 金品は、ためること自体に価値があるの

ではなく、それを有効に使うところに

価値が生まれてくるものです。

 「本来無一物」とは「もともと人間は裸で

生まれ裸で死んでいくのであるから、生き

ている間は何も持たずにおれ」という事

ではなく、「なくてもともと」と考え、

あるものは所持品としてでなく、天

からの預かり品として有効に使う

事を、すすめた言葉です。

  「世の中には一つとしてわがものというものなし。

 すべてただ因縁によって我に集まりたるものにすぎず、

 ただ預かるのみ」 『法句比喩経(ほっくひゆきょう)』

 ふつう私達は自分の体は自分の所有物だと

考え、自分の自由になるものだと思って

いるのではないでしょうか。

 しかし、はたしてそうでしょうか。

 自分の体が傷つけられて血がほとばしり、

「血液よ、お前は私のものなのだから止

まってくれ」と懇願しても血は勝手に流れます。

 悩み事にさいなまれて、「神経よ、お前は

どうして私をそんなに苦しめるのだ。

 お前は私の所有物なのだから私を苦しめ

ないでくれ」と力(りき)んでみたところ

で一向に悩みはなくなりません。

    ( 長くなりましたので 第151号 に続きます )

 今回も最後までお読みくださり、

       ありがとうございました。 感謝!

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