彼は辛酸をなめつくして蓄えた力が溢れ出したのだ 第 2,889 号

「落語の神様」古今亭志ん生、その人と芸の

すべてに迫る一冊。

立川談志、古今亭志ん駒など、志ん生を知る

さまざまな人たちの証言、インタビュー、

対談や、志ん生単行本未収録コレクション等

を収載する。

今なお、古典落語最大のスターとして輝き続ける

志ん生の魅力をいろいろな角度から味わいつくす

決定版。ご本人の文章、対談も満載。

彼が志ん生を襲名したのは、

昭和14年3月、すでに48歳だった。

ようやく客をつかんだというときに、

戦争が烈しくなり、世間はもう寄席

どころではなくなったのである。

敗色濃厚な昭和20年5月、空襲の怖さから

逃げるつもりで「満州」巡業に

くわわって、終戦を迎えた。

それこそ餓死か凍死か、というすれすれまで

追い詰められて、約1年半も

帰国できない羽目に陥った。

しかし、そんなときでも志ん生は

稽古を怠らなかった。

昭和22年1月、志ん生は、げっそりと

して東京へ帰ってきた。

志ん生が本領を発揮して燃え上がったのは、

それからである。

芸界用語で、芸風が変わって急に人気が

出ることを「化ける」というが、志ん生

は、決して化けたのではない。

彼は辛酸をなめつくして、蓄えた力が

溢れ出したのだ。

志ん生は、71歳で脳出血で倒れた。しかし、

年齢など問題ではなかった。医者に止められた

酒も飲み続け、あくまで自我を

つらぬいて高座の上で生きようとした。

まさに、落語家・志ん生の真骨頂である。

八方破れ、天衣無縫といわれたその芸は、

落語の世界というより志ん生の世界で、

あるいは志ん生が落語そのものであり、

志ん生の中にしかない落語の世界だった。

志ん生は、本当に酒が好きだった。

志ん生は、遅咲きの花だった。

ヨゴレになりかけて、

あまり面白くなかった志ん生の芸が、

一変したのは、第二次大戦中の

満州慰問をきっかけにしている。

8月15日の敗戦で状況は一変する。

ひとことで言えば、志ん生は、満州で

人間の生と死をしたたかに見てしまった。

生きるためには何でもするという、

人間の醜さ、欲の深さ。死ぬときには、

あっけなく死んでしまうものだという、

世の無常。

「生への断念」ともいうべきものを、

志ん生は見た。

落語も含めて、人間の営みのすべては

そうした断念の上に

築かれているのだと悟ったとき、

志ん生の芸が、変わった。

「うちのおとうちゃんは、

お酒を飲んでいるときばかりじゃない、

ひまなときも、公園にいったり、

神社に行ったりして、稽古をしていた」

(志ん生夫人・りん)

いつも稽古ばかりしていたというのは、

息子の志ん朝からも聞いたことがある。

「いよいよ苦しくなって、

これじゃいけねえと思ったら、

旅にでるんですよ。ドサ回りですよ」(志ん生)

ひとりで日本中をドサ回り。

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『古今亭志ん生。落語の神様』

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  今回も最後までお読みくださり、

      ありがとうございました。感謝!

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