妹と弟の存在がようやく私を支えてくれたのでした 第 2,499 号

森進一さんの名曲「おふくろさん」。
この歌を歌う時、森さんの心には、
亡き母親の思い出が去来するといいます。

苦労をして子供たちを育てた森さんの母親は
ある日突然自ら命を絶ってしまいます。
森さんは、この現実をどのように受け止め
人生を切り開いていったのでしょうか。

───────────────────

(森)

幸運は思わぬところからやってくるもので、
新人作曲家の猪俣公章さんの曲を
売り込むためのそのデモテープが、私のレコード
デビューにもつながることになったのです。

ビクターに持ち込まれたそのテープが流れると、
「曲もいいが、
これを唄っているやつもおもしろいじゃないか」
となったわけです。
私は18歳でした──。
 
デビュー曲「女のためいき」は、
おかげさまで大ヒットになりました。

本当にうれしかった。
これでなんとか自分のポジションを
つかむことができたと思いました。家族を
東京に呼んで、一緒に暮らせるかもしれない。
やっとそんな気持ちになれたのは、あの
ときでした。

 
翌年、念願かなって母と妹弟を呼び寄せ、
借家ながらも東京での一家そろっての生活を
スタートさせることができました。

母にはこれまで苦労した分を取り返してもらおう。
私たち家族の本当の生活はこれから始まる──
そんな喜びでいっぱいでした。
 
しかし、その生活が母の大きな負担になるなど
とは、夢にも思わないことでした。
母は長い苦労のせいでリウマチを患い、
東京の水にも慣れにくかったのか、
精神的にも不安定になっていました。

私と恋愛関係にあり
結婚も約束していたという女性が現れ、
裁判になったことも、
母の心をさらに不安定にさせたようでした。
もちろん、私自身にはまったく身に覚えのない
訴えで、裁判でも正当な決着がつけられたの
ですが、その間のマスコミ騒動が
母には耐えられなかったのかもしれません。
 
母が自らの命を絶ったのは、
一緒に暮らせるようになって、
わずか2年後のことでした。

私はその知らせを公演先の長崎で聞きました。
底無しの沼にどこまでも沈み込んでいくような、
頭の芯がしんしんと冷え込んでいくような、
それでいて胸をかきむしって叫びたいような、
あのときの気持ちを
どう表現すればいいのか分かりません。
 
けれど、東京に戻るわけにはいきません。
私の歌を待っていてくださるお客様がいます。
その日のコンサートで
泣きながら唄った「おふくろさん」は、
それ以来、母の命、そして私の命を
込めた「おふくろさん」になりました。
 
もっともっと親孝行したいと思っていた矢先に
母を失った衝撃は、
私にとって例えようもなく大きなものでした。
悲しさ、悔しさ、無念さが入りまじり、
無気力な日々が続きました。

けれど私には妹と弟がいました。
妹には幸せな結婚をさせて、弟は医者にする。
それが母の望みでした。
弟は病身の母を見ながら育ち、
「人さまのお役に立つ人になるんだよ」
と口癖のように言っていた
母の言葉を聞き、
医師を志望するようになったのです。
 
ここで私がだめになってしまうわけには
いかない。妹と弟の存在がようやく
私を支えてくれたのでした。


※『致知』1998年4月号/特集インタビュー

より

致知出版社の人間力メルマガ

  今回も最後までお読みくださり、

      ありがとうございました。感謝!

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