今川文化と呼ばれる進んだ文化が花開いていた 第 2,962 号

2023/12/20 (水) 9:00

 最新の学説をふまえ直木賞作家の想像力が描き

出す、新しい「天下取りへの道」あまたの英傑

たちがしのぎを削り刃を交えた戦国時代を

背後で突き動かしていたのは、同時代の

世界情勢であった。ライフワークと

なる巨編小説「家康」に取り組む

作家・安部龍太郎が、検討した最新の

学説や実際に足を運んだ取材、大きな枠組み

の作家的想像力で、これまでにない家康像

と「家康天下取りへの道」を描き出す。

 「桶狭間の戦」「三方ヶ原の戦」「長篠の戦」

「小牧長久手の戦」「関ヶ原の戦」といった

家康が戦い抜いた合戦をグローバルな視点

から見つめ返し、今川義元、武田信玄、

織田信長、豊臣秀吉といった英傑

たちとの交わりを日本史を貫く2つの

力学の視点から読み解くとき、あらたな

家康像が立ち現れる! 激動の世界と日本の渦中で、

家康を天下人に導いた終生の思想「厭離穢土

欣求浄土」とは何か。戦国時代像を刷新

する歴史学の成果に基づきながら、天下

人への道を描き直し、人間・家康に

深く切り込む。

 戦国大名は、流通経済から生まれた。南蛮貿易

によって、それまでの数倍にのぼる商品と貨幣

が国内に流通するようになった。高度経済

成長だ。貿易の対価として銀の需要が

爆発的に高まった。シルバー・ラッシュである。

 戦国の高度経済成長を支えた富の集積地が、

謎に包まれた「堺」である。内外の交易の

拠点であり、納屋衆と呼ばれる富裕な

商人が支配していた。

 茶の湯の政治学がそこにあり。茶の湯とは、

ただお茶を飲むという趣味ではなく、ビジ

ネスや政治と密接に絡んでいた。

 茶室は、じつは商談の場であったのだ。

気密性が高く、誰も近寄れない。茶室

で開かれる茶会に呼ばれるという

だけで、超上流階級のメンバー

ズ・クラブに招かれたようなものだった。

 茶の湯を広げ、茶会をプロデュースしたのが

千利休ら納屋衆だったことは重要なり。

 納屋衆は、信長、秀吉、家康と続く天下人を

はじめとする有力者に茶の湯を通じて接近し、

商談と同時に政治の裏工作にもコミットしていた。

 茶会を開くことを許されるというのは、おそらく

天下を動かす密談のネットワークに入ることを

許されるということを意味する。

 家康も、利休ら茶人がプロデュースした茶会

を通じて機密情報を集めたり、納屋衆

との商取引や政治工作を行った。

 堺、そして茶室は、表だって話すことのでき

ないような密談や、政治的な裏取引

にも利用された。

 家康が人質となったころの今川領国では、

今川文化と呼ばれる進んだ文化が

花開いていた。

 今川氏はもともと「天下の副将軍」「足利家

が絶えれば吉良が継ぎ、吉良が絶えれば

今川継ぐ」と言われたほどの名門である。

 今川の本拠であった駿府は、豊かで文化的な

香りの高い都会だった。また交通の要衝で、

太平洋海運の集積地でもあった。

 駿府で、8歳から19歳まで最先端の学問を学ぶ

ことができたのは、家康の人格形成に大きな

意味を持っている。彼の学問や性格の

基礎は、駿府で作られた。

安部 龍太郎 (著)『家康はなぜ乱世の

          覇者となれたのか』

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  今回も最後までお読みくださり、

      ありがとうございました。感謝!

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