そんなにやる気があるなら教員になる道もあるぞ = 2-1 = 第 2,662 号

幼少期の失明という逆境を乗り越えて
東京の大学に進学し、郷里・岡山で長年、
盲学校教師を務めた竹内昌彦さん。
現在は目の不自由な海外の子供たちを支援する
ヒカリカナタ基金を設立するなど
幅広く活躍されています。

竹内さんが考える人間の幸せとは。『致知』
2006年9月号の記事の一部をお届けします。

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(竹内)
 
私が右目の視力を失ったのは生後間もなく、
中国からの引き揚げ船の中でした。
肺炎による40度の高熱で
神経をやられてしまったのです。
 
左目は0.1と僅かに視力が残りました。
だがそれも小学2年の時、
網膜剥離によって突然光を失いました。
病院では手の施しようがなく
「このまま普通学校に行くのは難しい。
盲学校で一番になりなさい」という
両親の言葉に促されるように、
地元岡山の盲学校に編入しました。
 
編入したての頃、点字をマスターするのが
大変だったことを除けば、
盲学校の生活はとても楽しく充実していました。
普通学校の時のように
いじめにあうこともありません。

中学部に入るといい先生、いいライバル
にも巡り合い、成績も伸びました。
いま思い返しても障害を意識することなく
仲間とともに大いに学び、
遊んだものだと思います。
 
中学時代まで私は
建築設計技師になることを夢見ていました。
しかしいくら成績が優秀でも、
進路はあん摩マッサージ指圧師や鍼師など
選択肢は限られ、どうもがいても
夢を実現するのは困難な時代でした。
このことを知って私は愕然としたのです。
 
その頃、一つ上の兄が岡山で一番の
高校に進学しました。本人は普通にして
いましたが、親は嬉しそうでした。近所の
人たちは「お兄ちゃん、よく頑張ったね」と
お祝いの万年筆や腕時計を持ってわが家を
訪れました。


「兄には将来、エリートとしての
幸せが待っているだろう。
だが自分は親に手間ばかりかけて、
本当に生きている意味があるのか。
人間の幸せとは何だろう」 
そう自問自答しました。

15歳の少年ながら、人並みの幸せが欲しいと
真剣に思いました。

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  今回も最後までお読みくださり、

      ありがとうございました。感謝!

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