そんなにやる気があるなら教員になる道もあるぞ = 2-2 = 第 2,663 号

あん摩の仕事に情熱が持てないまま
高校2年の夏休みを迎えたある日のことです。
近所のおばさんが
「肩が辛い。あんた揉んでくれないか」
と訪ねてきました。
20分ほどあん摩を施して、
しばらくすると再びやってきて、
満面の笑みでこう言うのです。

「あんたに揉んでもろうたら
肩がぽかぽかして痛くなくなった。
エプロンの紐も後ろ手で結べた。
ありがとう。本当にいいことを学んどるな」
 
余程嬉しかったのでしょう。
何度も御礼を言って、
「これはおばさんの気持ちや」
と大きな西瓜を私に手渡しました。
 
高校生の自分がここまで
人を喜ばせることができるとは――。
あれほどいやだったあん摩という仕事に
誇りを持てるようになったのは、
この出来事が大きなきっかけでした。

高校1年生の教科書から復習することにし、
あん摩師や鍼灸師の免許取得を目指して
本気で取り組みました。
 
私の変化に担任の先生が
気づかないわけがありません。「そんなに
やる気があるなら教員になる道もあるぞ。
難しい道だが、竹内、やってみるか」
 
この言葉に奮起して私は大学に進み、
盲学校教師への道を歩き始めることになるの
です。

 
私の幼少の頃は家に障害者がいると「世間体
が悪い」「きょうだいの縁談に差し障る」
と言って家の奥に閉じこめていたものです。
だが、私の両親は違いました。
世間知らずにならないようにと
お祭りなど人の集まる場所に連れ出し、
川や山に行っては自然の中で
体を鍛えさせてくれたのです。
 
昭和39年、19歳の私は
東京オリンピックの後のパラリンピックに
卓球の岡山県代表として出場しました。
家族や多くの人に見送られて
岡山駅を出発する時のことです。

普段はおとなしい父が、
電車のベルが鳴るやいきなり大声で
「竹内昌彦、万歳」と3回叫んだのです。
 
どのような思いで父が万歳三唱したか、
私にはよく分かりました。それは、
目の見えない子をここまで育てあげた、
国際舞台に出場させることができたという
父自身の勝利宣言に他なりませんでした。

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  今回も最後までお読みくださり、

      ありがとうございました。感謝!

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