共に喜び合える社会に生きる (その1) 第 80 号

 石一つだけでは高い山が出来ないように、天下の

あらゆる事も多くの人の協力があってこそ、

成就(じょうじゅ)するという意味で、

なにか人以上に抜きん出て成功する人も、それを

支える陰の力があってこそ可能なわけで、それを

自分の努力だけで勝ち得たように考え、「お山

の大将我一人」と優越感にひたって人を

見下すのは越権というものです。

 「実るほど頭の下がる稲穂かな」という諺が

あるように、自分が成功すればするほどむし

ろ謙虚になり、そこまで導いてくれた

すべてのものに感謝すべきでしょう。

 この世にあるものは、どれ一つとしてそれ

自身が独立して存在しているものはなく、

お互いが持ちつ持たれつの相依(そうえ)

関係にあり、生成発展しています。

 仏教ではこうした世の中全てのものが相依

関係にあることを「縁起の法則性」と言い、

『相応部経典(そうおうぶきょうてん)』で、

  「これあるによりてかれあり、

         これ生ずるときかれ生ず。

   これなきによりてかれなく、これ滅するとき

  かれ滅す」と記しています。

 すなわち、「これ」とは自分自身であり生成発展

の正因(しょういん)(第一原因)となるものですが、

それは助因(じょいん)(第二原因)である「かれ」

のお蔭によって可能になり、また逆も真なり

で、「かれ」も「これ」がなければ成立

しないことを意味しています。

 例えば、いくら植物の種(正因)があっても、それを

蒔く土地や太陽の熱や水など(助因)がなければ木や

花として立派に生育せず、また、いくら土地など

の助因があっても種という正因がなければ、

木や花は育たないようなものです。

 こうしてすべてのものが相依関係を保ちながら、

この世に存在しているにもかかわらず、人間

だけが自分一人で生きているような錯覚を

おこし、その自分を成り立たせている、

他の存在を無視して孤高を誇示して

いるのはどういう事でしょう。

  フランスの思想家ルネ・ジラ-ルはその著『欲望

 の現象学』で、「一つの構造が完成したときそれ

 自身が閉鎖性を持ち始める。

 一つの文化、一つの社会、一つの国家、いずれも

が完成と同時に閉鎖的となり、その外部のものを

取り込むことが困難となる」と述べていますが、

私達は自分の生成発展の段階では、周囲のも

のを利用しその協力を得ながら、いったん

自分の城を築き上げてしまうと、それを

他から壊されまいと孤高を保ち、たえ

ず自分の中の異質的なものを排除

して、わが身の保全を図る存在

なのでしょうか。

 人間特有のこの自己中心性は、今日いたる

ところで見受けられます。

 自分さえ良ければ人はどうなっても構わない、

という利己主義は個人だけでなくあらゆる集

団や組織や国家にみられ、それぞれが自分

のところの発展を目指しているようです。

 個人としては蓄財に狂奔し、企業体では組織の

拡大化を目指し、国家は自国民の保護主義に走

り、発展すればするほど求心的となり、自ら

の安全と純粋性を保つために、それ自身に

とって都合の悪いものや、対立する異質

的な存在を排除して独自の秩序を構築

しようとしています。

               ( 長くなりましたので次号に続きます )

  今回も最後までお読みくださり、

        ありがとうございました。 感謝!

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