最善の努力を尽くして天命を待つ (2-2) 第 161 号

 今日では個人の自由は保障され、本人の

能力や努力次第で経済的な進歩・向上

の道は開かれています。

 しかし、それによって個人間の格差が、

ますます拡大し、無制限な競争は対立・

抗争を生み、結果的には、社会福祉

などの救済措置が必要になってきます。

 いずれにしても、人間の欲望の拡大は両

刃(もろは)の剣で、抑圧すればやる気を

なくし、放置すれば他を疎外(そがい)

する危険をはらみ、人間同士の公

正なル-ルづくりが望まれます。

 経済面での欲望の拡大はいざ知らず、精神

面での内面的な能力の進歩・向上には、他

を疎外する要因が少なく、自分との戦いです。

 「精神一到何事か成らざらん」で、その

くらいの気概(きがい)がなければ苦難

に打ち克つ事は出来ないでしょう。

 「断じて行えば鬼神もこれを避く」とか

「なせばなる、なさねばならぬ何事も、

ならぬはなさぬ人にこそあれ」と

いった格言も、一見不可能な

ことを可能にする不退転

(ふたいてん)の心構え

を説いたものでしょう。

 自分にとって最大限の努力をし、その結果

は天にまかせるくらいの気概がなければ

何事も成就(じょうじゅ)しません。

 鎌倉時代の道元禅師(どうげんぜんじ)

(曹洞宗の開祖・1253年寂)も、

  「切(せつ)に思わばかならず得べし」と

 語っていますが、そうした努力が自分の

 能力を開発していくのではないでしょうか。

 現代人は、とかく自分の能力を過少か過大に

評価し、自分の能力の限界に達する以前に

根負けしてあきらめるか、怖さ知らずで

限界以上のものに挑戦して自爆する人

を見かけますが、ともに自分の限界

を知らないことによります。

 最善の努力を尽くして「もうこれ以上は

どうにもならない」という自分の限界が

分かれば、たとえ努力の結果が失敗に

終わったとしても、「自分にはこれ

だけやれた」という満足感がわき、

悔いはないでしょう。

 ところが限界を知らない人にとってはただ

やみくもに挑戦し、結果が悪いと自責

の念に駆られるようです。

 おそらく冒頭の句は、いかなる難問に遭遇

しても、最善の努力をしさえすれば突破で

きるということではなく、自分の能力の

限界に挑戦し、いくらかでも、その

限界を拡張して、「自分の一番に

なる」ことではないでしょうか。

 その結果、奇跡が起きるかどうかは

どうでもよいことです。

      ( 仏教伝道協会 みちしるべより )

 今回も最後までお読みくださり、

     ありがとうございました。 感謝!

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