工場は継がなくていいから医者になったらいい 第 2,555 号

『致知』10月号(44周年創刊記念号)では
京都大学iPS細胞研究所名誉所長の山中伸弥氏と
宇宙飛行士の野口聡一氏にご対談いただきました。

私たちは何のために生き、何のために働くのか。
そして人類はどこに向かおうとしているのか
最先端の仕事に挑む2人の科学者の対談に
興味は尽きません。

本日はお2人の人生の原点もいえるお話を
紹介します。

───────────────────

(山中)
先ほど野口さんは工学部出身だとおっしゃって
いましたが、宇宙に興味を抱かれたのは
どういうきっかけだったんですか?


(野口)
宇宙への関心を持った最初のきっかけは、
5歳の時、父の実家がある大阪で開かれた日本
万国博覧会で「月の石」を見たことでした。


その後、宇宙飛行士を目指そうと思ったのは、
高校3年生の時です。知の巨人と
称されたジャーナリストで評論家の立花隆さん
が書かれた『宇宙からの帰還』を読み、宇宙に
行きたいと強く惹かれるものがありました。

この本はあるアメリカ人宇宙飛行士のルポルター
ジュで、宇宙で生と死の極限に立ち会ったことが
その人の内面にどう影響を及ぼすのか、
ということにフォーカスしていて、
すごく新鮮な切り口だったんです。
宇宙飛行士のキャリアを決めた
一冊と言っても過言ではありません。

(山中)
一冊の本との出逢いが
野口さんの将来を決めたのですね。

(野口)
父はテレビのブラウン管をつくる技術者でした
が、宇宙飛行士になりたいと伝えると、可能性
を否定せず、私がやりたいことを自由に挑戦
させてくれたんです。

もっとも、当時は日本人宇宙飛行士がまだ
いなかったので、可能性が低すぎて反対する
気になれなかったのかもしれません(笑)。

いま振り返ると、どんなに可能性が小さくても
諦めなくてよかったなとつくづく思います。

(山中)
父親の影響というのはやはり大きいですよね。
私の父は町工場を経営していました。「もっと
いいものはできないか」というのが口癖で、
常に創意工夫を凝こらしていた姿が
脳裏に焼きついています。

祖父も同じような仕事だったみたいですから、
私にも技術者の血が絶対に流れていると
思います。


私が中学生の時に、父は仕事中に怪我をして
輸血が必要になり、その輸血が原因で肝炎に
なってしまい、肝硬変を患いました。
元気だった父がどんどん衰弱し、顔色も黒ずんで
いく。病に苦しむ父を見ている中で、
医学にすごく興味を持つようになったんです。
父も「工場は継がなくていいから医者になったら
いい」と背中を押してくれましたが、
私が研修医になった翌年、
父は58歳で亡くなってしまいました。

せっかく医者になったのに何もしてあげられ
なかった。そういう無力感、喪失感に襲われた
ことが臨床医から研究者に転じた大きな理由です

(野口)
そういう深い思いが背景にあったのですね。

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