世間の雑事とは離れ.深く風流の道に生きよう 第 884 号

 井伊家の人々の“生き様”を我々は

学ぶべきである。

 浜松、彦根、井伊家1000年の歴史

 徳川家康だけでなく、豊臣秀吉からも

高い能力を認められた徳川四天王

の一人だった井伊直政。

 幕末の大老で桜田門外の変で暗殺される

井伊直弼に続く名門井伊家は、どの

ように形づくられたのか。

 彦根市出身で、彦根藩の元藩校だった彦根

東高校卒業の田原総一朗氏が「井伊家」

の歴史に大胆に迫る! 

 井伊直弼は時代の先をしっかり

見据えていた。

 そして、志士たちに殺されるのだが、明治

維新後、勝者である薩長の政治家たちは、

直弼と同じような判断をした。

 直弼は通商条約を結ぶことが、徳川幕府、

ひいては日本のために善と判断したが、

そしてその判断は決して誤って

いなかった。

 彦根という町は、義が生きる町である。

 しかし、義を貫くとは、己の身を顧みない

強い意志が求められているのである。

 大老、井伊直弼をすごいと思うのは、たと

え不利なことでも必要であれば口に出す、

行動に起こすというところだ。

 その信念を貫く生き様に、「逃げない

生き方」を感じている。

 「徳川家のおかげで井伊家がある。

家督を継ぐものは徳川家に滅私奉

公せよ」井伊直政の死に際して

直孝への遺言である。1602年だ。

 井伊直弼、17歳から15年間を

埋木舎で心を鍛える。

 直弼は、13代藩主井伊直中の

14男に生まれた。

 将来、藩主になるには絶望的な14男だ。

 直弼は、隠居し悠々自適に過ごした直中

のそば近くで17歳まで過ごした。

 十四男とはいえ、17歳まで直中と過ご

したことが、直弼には幸運だった。

 人間を鍛える礎を直中から学んだからだ。

 直弼20歳のとき、他大名への養子候補

として弟の直恭とともに江戸に出向く。

 弟だけが養子縁組が整い、直弼は失意

の中、一人彦根に戻ることとなった。

 このとき、「埋もれ木のような我が身で

あるが、世間の雑事とは離れ、深く風流

の道に生きよう」と、自分が暮らす

屋敷を「埋木舎」と名付けた。

 彼は17歳から32歳までの

15年間ここで暮らす。

 彼はここでよく学んだ。

 国学、和歌、茶の湯、居合などの

諸芸に打ち込んだ。

 彼は大名の庶子という凡庸な人物では

なく、当時としては高い教養を持った

一流の文化人となるのだった。

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今回も最後までお読みくださり、

    ありがとうございました。感謝!

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