しからば慶喜公のことは自分が一身に責任を負いましょう 第 2,338 号

学校の歴史教科書にあまり記述はありませんが、
幕末の江戸城無血開城に大きな役割を果たした
人物がいます。その名は山岡鉄舟。
幕府と新政府軍との交渉役を務め
江戸を火の海から救ったばかりでなく、
剣、書、禅の達人としても知られています。

『致知』2月号では臨済宗円覚寺派管長の
横田南嶺さんと、臨済宗国泰寺派全生庵住職
の平井正修さんがそんな鉄舟の功績や人柄を
語り合っています。


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(横田) 
それから、あの話はぜひしてもらいたいですね。
江戸城無血開城に導いた鉄舟居士の命懸けの
説得。いくつの時でしたっけ?

(平井)
慶応4(1868)年ですから33歳です。鳥羽伏見
の戦いが終わって、徳川慶喜公が大坂から
江戸に戻り、上野の寛永寺に蟄居する。
しかし官軍(新政府軍)は徳川を倒すべしという
ことで、有栖川宮熾仁親王を大総督、西郷隆盛を
総参謀として攻めていく。


(横田)
江戸城総攻撃は3月15日に決まっていた。

(平井)
幕府側は新政府軍に対していろいろ書状を出す
ものの、うまくいかない。
3月に入り、事ここに至っては直接使者を送る
しかないということで、慶喜公の側近である
高橋泥舟の推挙を受けた山岡鉄舟がその任に
当たることになったんです。


ただ、山岡は尊王攘夷の魁といわれた清河八郎
と盟友だったため、幕府から危険分子扱い
されていました。

勝海舟も最初は警戒していたようですが、
ひとたび会って鉄舟の心底が分かると、
西郷に宛てた書状を託します。

勝の書状を預かった山岡は
薩摩藩士・益満休之助と駿府へ赴き、
3月9日に西郷と談判をする。

(横田)
当然、2人もこの時が初対面ですよね。

(平井)
はい。山岡が江戸城総攻撃の回避を申し出ると、
条件が5つ出されるんですね。
江戸城を明け渡す、
軍艦及び武器をすべて引き渡す、江戸城中の
家臣を向島に移し謹慎させるといった中に、
「徳川慶喜公を備前藩にお預けのこと」
という要求があった。


山岡はすかさず「これだけは呑めません」。
西郷も「いや、朝命です」と譲らない。
その時に山岡はこう言うんですね。
「立場を変えて考えていただきたい。
あなたが賊軍の汚名を着せられ降伏の使者と
して来た時に、ご自身の主君である薩摩の
島津公お一人を敵方に渡して、

自分たち家臣だけが生き永らえることが
あなたはお出来になるのか」。


これに西郷もグッと詰まって、
「しからば慶喜公のことは自分が一身に責任
を負いましょう」ということで、無事に
談判が決着したんです。


※お2人の対談には、
鉄舟の様々なエピソードが紹介されています。
続きは、ぜひ誌面でお読みください。

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 今回も最後までお読みくださり、

     ありがとうございました。感謝!

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