かたよらない心.こだわらない心.とらわれない心 第 2,518 号

臨済宗円覚寺派管長の横田南嶺さんは
「坐禅は心を空っぽにする修行である」と
説かれます。

心が張り詰め、たくさんの概念や情報、
感情で頭がいっぱいになった時、
どうすれば鏡のように澄んだ心を取り戻せる
のでしょう。


─────────────────

〈横田〉
自分中心なわがままな物の見方が執着を生みだし、
争いを起こし、苦しみの原因になってしまう。
そのように様々な思いや認識で頭の中が一杯に
なってしまう。


五祖弘忍(ごそぐにん/601~674)という禅僧
は、迷っている人の頭はゴミで一杯になった部屋
のようであり、仏の心は、ゴミがすべて片づいて
広々とした部屋のようだと譬(たと)えられた。

同じ部屋でも物にあふれて散らかっていては
狭い。現代人の多くがかかっている病は、
たくさんの物を抱え込んで狭くなったら、
なお部屋を広げれば良いと考えるところにある。

しかしそれは無理である。部屋を広くするには、
物を片づけて、不要なものを捨て去ることに
ある。知識を詰めこむことばかりして、
頭が一杯になっていないだろうか。
様々な思いや感情が一杯になってあふれては
いないだろうか。


『般若心経』では、まずお互いの心を空っぽに
しようと説く。

坐禅をするのは心を空っぽにする修行である。
五蘊(ごうん/色・受・想・行・識)を空っぽに
する、眼で外のものを見ない、耳で外の音を聞か
ないように、好きだ嫌いだなどと判断をせず、
ただ聞こえてくるに任せる。


心でもあれこれ考え事をしないようにと言うの
だが、考えるなとは難しいので、
静かに呼吸をしていることに意識を集中する。
鼻から息が出ている、
鼻から静かに入っていることだけを見つめる。
それをただ繰り返すと、だんだん心が空っぽに
なってくる。

 
すると、ちょうど心が恰も鏡のように澄んでくる。
鏡というのは中に映像がない、空であり、
空であるからこそ、何でも映る。静かに坐って
いると、逆に何でもきれいに心に映ってくる。

『般若心経(はんにゃしんぎょう)』は、
『大般若経』600巻の内容を凝縮したものであると
言われるので、短い経典だが、内容は簡単ではない。
それを、奈良の薬師寺の高田好胤(たかだ・こういん)
和上は、何回も何回も『般若心経』を講義されて、
その心を、


「かたよらない心、こだわらない心、
とらわれない心、ひろく、ひろく、もっとひろく、
これが般若心経、空の心なり」

と喝破された。

★本記事は月刊『致知』2017年12月号
連載「禅語に学ぶ」より一部を抜粋・
編集したものです。

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  今回も最後までお読みくださり、

      ありがとうございました。感謝!

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