心とこころが共振しほほ笑み合う (2-1) 第 130 号

  言(ことば)近(ちか)くして意遠(いとお)し

 いつも私達のそばに仲の良い親兄弟や友達が

いてくれると嬉しいものです。

 また、そうでなくても『論語』に「朋(とも)

遠方より来るまた楽しからずや」とあるよう

に、たまに遠来の客が訪れて、よもやま話

に花を咲かせ、歓談するのは楽しいものです。

 「類は友を呼ぶ」というように、相性(あい

しょう)のあった好きな仲間となら、いくら

一緒にいても飽きず、その立ち去る時に

は未練が残り、一抹(いちまつ)の淋し

さが付きまといますが、嫌いな相手

だとそうはいかず、いち早く立ち

去ることを願い、去った後でホッとします。

 誰とでも仲良くすることが理想でしょうが、

凡人(ぼんじん)は、なかなかそうした

境地になれそうにありません。

 仏教では「四苦八苦(しくはっく)」といって、

人間には「生・老・病・死」の苦しみのほか

に、「愛別離苦(あいべつりく)」といって

愛する人と別れなければならない苦しみ

と、「怨憎会苦(おんぞうえく)」とい

って、嫌いな人と会わなければなら

ない苦しみと、「求不得苦(ぐふとっく)」という

ほしいものが得られない苦しみと、「五蘊盛苦

(ごうんじょうく)」という、満ち足り

すぎて困る苦しみを挙げています。

 こうした苦しみが常に私達に付きまとい、

ひと時として離れる事がないというのです。

 そこに展開するのは泣き笑いの人生ですが、

はたして、私達はこうした苦しみの束縛か

ら、抜け出す事は出来ないのでしょうか。

 私達が友達を作りたがるのも、つまりは

お互いの孤独感を癒し、慰め合い励まし

合う相手が欲しいことにほかならず、

自分の孤独に耐えられない存在で

あるからこそ、人を愛すること

が出来るのでしょう。

 自分が悲しい時に、共に悲しんでくれる

人がそばにいると、その悲しみは半減し、

嬉しい時に、共に喜んでくれる人がそ

ばにいると、その喜びは倍加すると

いわれていますが、そうした自分

の心を通じさせる相手がそばに

いるという事によって、自分

の孤独感を紛らわしている

に過ぎないのではないでしょうか。

 最愛の人がそばにいることは、いない

よりもましかもしれませんが、いつか

は別離の時が訪れ、一人ボッチに

ならなければなりません。

 そうしたときに一人であっても、み仏によって、

自分が見守られていると信じられる人にとって

は、孤独の淋しさはなくなります。

 そうした存在が身近に感じられない人に

とっては、一人でいても、そばに親兄弟

や、伴侶や友達がいたとしても、淋し

いことには変わりないでしょう。

 なかには、多くの人に取り囲まれて、淋し

さを紛らわすことができても、ひとつも

心の安らぎが得られない人も

いるようです。

         ( 長くなりましたので次号に続きます )

  今回も最後までお読みくださり、

      ありがとうございました。 感謝!

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