残された記録や資料には残した人間の意図が必ずある = 3-2 = 第1,722号

 豊田氏は、「反省会」でこう発言している。

「およそ(東京裁判の)2年半の審理を通じ

最も残念に思ったことは、海軍は常に精

巧な考えを持ちながら、その信念を国

策に反省させる勇を欠き、ついに戦

争・敗戦へと国を誤るに至ったこ

とである。陸軍は暴力犯。海軍陸海軍あ

るを知って国あるを忘れて

いた。敗戦の責任は五分五分であると」

は知能犯。いずれも

 東京裁判の結果、「陸軍悪玉・海軍善玉」

イメージを、戦後長らく、今に続くまで、

われわれ一般国民の間にひろく浸透さ

せたといわれている。本当に陸軍だ

けが「悪」で海軍は「善」だった

のか。別の言い方をするならば、

海軍が結果的に免責とされた

のはなぜだったのか。

 戦後長い間、海軍による組織的な裁判工作は、

歴史の空白となっていたともいえる。それが

判決にどう影響を与え、海軍の善玉イメー

ジがどのように作られていったのか。

その空白を埋めるような反省会に

おける豊田大佐の発言は、メガ

トン級の破壊力を持っていた。

 豊田大佐は、終戦後、ドイツから帰国直後、

軍令部第三部(情報部門)の竹内少将から、

本格化する戦犯裁判に対応するために力

を貸してほしいと懇願された。豊田大

佐自身も駐在武官として太平洋戦争

の戦場に一度も立つことが出来な

かったことを、心から悔いていた。

 「祖国の興廃のかかる戦争になんらお役に

立てなかった武運誠に残念で相済まないこ

と。与えられた戦争裁判事務、これこそ

が私の戦場であり、これからが私の戦

争である」 (豊田隈雄手記より)

 海軍の裁判対策で鍵を握っていたのも、やは

り軍令部だった。軍令部は敗戦直後に解体さ

れたが、その実態は消滅していなかった。

昭和20年11月30日、GHQの指令によ

り海軍省は解体され、後継として

「第二復員省」が発足した。

 軍令部は解体されたが、実態は厳然と残り、

第二復員省が水面下で進める裁判対策にお

いて、その「能力」を発揮することになる。

 海軍省はそもそも日本の中央省庁の一つで

あるため、連合国によって実施される戦犯

裁判に対し、政府の一員として協力する

側であり、海軍関係の戦犯容疑者の弁

護などはGHQによって一切が禁じら

れた。しかし実際には、GHQの目

をかいくぐっり、海軍関係者の

擁護、裁判対策に組織をあげ

て取り組んでいたのである。

 NHK取材班『日本海軍400時間の証言:

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 今回も最後までお読みくださり、

    ありがとうございました。感謝!

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