私の熱の入れ方には国務省の同僚も苦笑していた 第 2,709 号

 私は、文学が好きで、教授たちの熱心な指導

のおかげで、英文学の古典の背景を理解

することができた。

 正規のロシア語予備訓練のための赴任地は、

エストニアのタリンで、私はそこの

副領事になった。

 ここで時間を見つけてロシア語を真剣に勉強

しはじめた。私の教師は、貧しい

ウクライナ人であった。

 ロシア語は、豊かで表現力に富み、音楽的で、

時には優しく、時には荒々しく、狂暴で、

時には古典的な厳しさがある。

 私は、そのロシア語の魅力にとりつかれ、それ

以後、私を離さないどころか、後日の苦しい

試練の時代に不思議にも力と確信の尽き

ない源泉となってくれたのであった。

 1929年、ベルリン大学に入って、ロシアに

関する総合研究をはじめた。ロシア史を学

び、ロシア語とロシア文学を個人教師

について勉強した。

 個人教師の多くは、教養あるロシア人亡命者

で、私は彼らと会話し、ロシア古典やクリュ

チェスキーの有名なロシア史講義などから

の文章を何時間もかかって声高く朗読

して、聞いてもらった。

 それはロシア語音節のアクセントの秘密

を会得するためであった。

 1931年の秋から1933年の秋までの2年間、

私が勤務していたリガのアメリカ公使館

ロシア課は、まだとるに足らない

調査班にすぎなかった。

 アメリカはロシア本土に外交代表部をもって

いなかったので、このロシア課がソビエトの

定期刊行物や、その他の出版物を受け取り、

それを読んで、合衆国政府にソビエト

連邦の種々の情勢、とくに経済情勢

についてできるだけ詳しい報告を送った。

 疑い深いソビエト当局は、すぐにこの小規模

な調査部を恐ろしいスパイ組織だと決め込ん

だ。私たちは額面通りの仕事を地道にやっ

ていただけであった。秘密の手先を使っ

ていなかったし、またその意図も

もっていなかった。

 相手が大国なら、正規な方法で入手できる情報

を慎重に学術的に分析すれば、スパイ情報の

高等工作よりもはるかに役立つものが得

られるということを、私たちは経験

から知っていた。

 リガで私が特に命じられた仕事は、経済情勢

の報告であった。この仕事に私は興味を持ち、

没頭した。私の熱の入れ方には、国務省の

暇をもてあましていた同僚も苦笑して

いたことだろう。

 それでも、ソビエト経済、ロシア経済地理の

研究が次第に進んできたことが

自分でもわかった。

 しかし、経済調査は、孤独な仕事であった。

長い夜の時間やウィークエンドを、私は自

分が計画していた、アントン・チェーホ

フの伝記の資料集めに当てていた。

 伝記を書く準備のため、私はチェーホフ全集

30巻全部、チェーホフの個性味豊かな書簡集

の分厚い6巻、その他多くの関連する

回想録などを通読した。

 この膨大なチェーホフ関係文献ほど革命以前

のロシアの雰囲気をあらわすにもって

こいの資料はないだろう。

 ジョージ・ケナンは、1904年生まれ。アメリカ

の外交官、政治学者、歴史家なり。プリンス

トン大学を卒業後、1925年に国務省へ

入省。戦後、マーシャル国務長官

に抜擢され、政策企画部の本

部長を務めた。1947年から48年、

「ソ連封じ込め」を主柱と

する冷戦計画を作成した。

清水 俊雄 (著)『ジョージ・ケナン回顧録』

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  今回も最後までお読みくださり、

      ありがとうございました。感謝!

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