ご自身の満洲での姿と少年の姿が重なったのですね 第 2,531 号

作家の青木新門さんが8月6日、お亡くなりに
なりました。先の大戦から75年が過ぎ、
当時の記憶を語り継ぐ人が少なくなっている
一方、コロナ禍に見舞われた現代社会には
新たな悲しみが生まれてもいます。

青木さん最後の登場となった『致知』2019年
11月号から、曹洞宗僧侶・中野東禅さんと
それぞれの戦争体験を交えて〝悲しみとどう
向き合うか〟を語り合っていただいた
貴重な内容をお届けします。

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〈青木〉
僕個人のことで恐縮なのですが、
いまでも忘れられない光景があるんです。
それは8歳の時に満洲で見た夕焼けの光景です。

〈中野〉 
ああ、先生は戦時中、満洲にいらっしゃった。

〈青木〉 
はい。引き揚げの時は、お袋と僕と妹と一緒に、
いまの瀋陽の近くにある収容所におりました。
お袋が発疹チフスに罹って隔離されると、
僕と妹だけになりました。
知らない大勢のおじさん、
おばさんの間に2人挟まれましてね。

翌朝、3歳になる妹を起こして背負おうと
したら、死んでいたんです。
焼き場がある場所を知っていましたから、煙が
出ている石炭の上に遺体を置いてきたのですが、
その時に見た中国の広大な大地に沈んでいく
真っ赤な夕日だけははっきりと目に焼きついて
います。


8歳の少年は戦争が悪いとか、親が悪いとか、
国家が悪いとか、そんなことは全く考えないん
ですよ。ただ大きな悲しみに包まれた
言葉にならない言葉。
その感覚だけはよく分かりました。
その感覚は70年経ったいまなお続いています。
消えるものではありません。

〈中野〉 
そうでしたか。
そういう悲しい体験がおありだったのですね。

〈青木〉 
幸い母とは合流し、
無事に日本に戻ってくることはできました。
その後、農地改革で家は没落し一家は離散。
成績がよく神童と言われていた僕は定時制高校
に通い、早稲田大学に進んだものの六〇年安保
闘争で挫折し、恋人に振られ、事業は失敗しと、
やることなすこと全部失敗しました。

それも悲しみと言えば悲しみなのでしょうけれど、
満洲での悲しみに及ぶものではありません。

それで40歳の時、僕はある1枚の写真と
出合って、大変な衝撃を受けるんです。


被爆後の長崎で死んだ弟を背負い、
焼き場の前に立つ少年の写真です。

撮影したのは最初に本土に上陸した
アメリカ海兵隊の従軍カメラマンです。
僕はいつもこの写真を手帳に挟んで
持ち歩いているんですが、
東禅先生もぜひ見ていただけたら……。

〈中野〉 
ピンと胸を張った少年がグッと唇を噛み締め
ながら前方を見つめている。
ご自身の満洲での姿と少年の姿が重なったの
ですね。


〈青木〉 
僕たちはその頃、鬼畜米英と教育されて
きました。そのアメリカ兵が近くで
カメラを構えている。この少年も泣くに泣け
ないですよ。


見てください。歯を食いしばって
唇から血が出ているでしょう。この子も僕と
同様、一家どころか一国を背負うくらいの
覚悟で生きてきたはずです。
死んだ弟と自分が一本の帯で繋がっている。
これが生死一如の姿なのだと思います。

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  今回も最後までお読みくださり、

      ありがとうございました。感謝!

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