まるで五重塔がそびえるように重心が定まって力みが必要なくなる 第 2,497 号

何かにつけて
「楽をしていきたい」と思うのが
私たち人間の常です。
禅ではこの「楽」について
どのような捉え方をするのでしょうか。

月刊『致知』で「禅語に学ぶ」を連載中の
臨済宗円覚寺派管長・横田南嶺氏が
「楽道」について語られた文章の一部を
紹介します。


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(横田)

そもそも「楽」というのはどういう意味で
あろうか。漢字の意味としては、
まず「音楽。にぎやかな音を配合したしらべ。
また、それをかなでる楽器」である。
それから「かなでる。楽器をならす」こと。
そして動詞として「たのしむ。心がうきうき
する」という意味がある。
「憂」の対語だ。

同じく「たのしむ。心から好む。喜んでとけこむ」
という意味もある。それから日本の言葉として
「らく。たやすい。安楽なこと」という意味があり、
「仕事が楽だ」という用例がある。らくをする
「らく」というのは、日本の言葉だとわかる。

『広辞苑』で「楽」を調べると、
一番に「心身が安らかでたのしいこと」とあって
「気が楽になる」「楽をする」という用例がある。

それから二番目に「好むこと。愛すること」。
三番目に「たやすいこと。やさしいこと」だ。
「楽にやれる」という場合だ。
四番目に楽焼の略。

五番目には「千秋楽の略」というのもある。
関連して「楽あれば苦あり」という言葉があり、
これはよく知られている。
「楽の後には苦しいことが来る。世の中は楽な
ことばかりではない」という意味である。

また「楽は苦の種、苦は楽の種」ともいう。
「苦楽が相伴って起こるのにいう」ことだ。

楽をしようとするとろくなことはないが、
一所懸命にやっていると、
それが楽になるということがある。
はじめは足が痛い、肩が凝る、
腰が張って痛むなど苦痛が多い。
このように慣れない坐禅であっても、
一所懸命に坐り続けると、ふっと楽になる
ことがある。


人間の体は不思議なもので、
楽をしようとせずに、
しっかり足を組んで坐り続けていると、
ある時からふっと余計な力が抜けて、楽になる。
これは不思議としか言いようがない。
どうしたら楽になるか、教えられるものでも
ない。ただ愚直にやっていると、
ふっと楽になるとしか言いようがないのである。
この楽な感じは、
はじめから楽をするのとは、雲泥の違いがある。

おそらく、このことは坐禅の修行に限らず、
どんなスポーツでも仕事でも通じることだろう。
大事なことは、楽をしようとせずに根気よく、
あきらめずに勤めていることだ。
やり続けていると、ふっと楽になるのだ。

それはきっと余計な力が抜けて落ちるのだろう。
坐禅の場合だと、腰骨がしっかりと立って、
土台が安定して、その上に背骨がまっすぐ
伸びて、一番上に頭が乗っかる。

それがまるで五重塔がそびえるようになると、
重心が定まって、力みが必要なくなるのだ。
坐禅は苦行ではなく、
安楽の法門だと言われる所以だ。

★横田南嶺管長の「禅語に学ぶ」は
『致知』の好評連載の一つです。

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  今回も最後までお読みくださり、

      ありがとうございました。感謝!

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