常に思いやりの気持ちで接し.仏性を磨き続け謙虚に生きる = 2-2 = 第 301 号

 私たち自身には仏になる性質はあって

も、仏自身にはなれそうにありません。

 しかし、仏にあやかる

ことはできそうです。

 私自身を振り返って考えてみても、いく

ら普段偉そうに見せかけても、実際は

ヘマや失敗のし通しで、到底人を

救ったり教えることの出来る

まともな人間ではなく、も

しその私にできることと

言ったら、周囲にいる立派

な知人、友人の働きを身に受け、

あやかって、それらの素晴らしさを

人に伝えることくらいでしょう。

 いや、それすら怪しいものです。

 幸せなことに、私は今まで直接、間接的

に知り合った立派な知人・友人

に恵まれています。

 

 それぞれにいろいろなことを

教えて下さる大恩人です。

 おそらくそうした人も他の多くの人から

影響を受けて、今日に至ったことでしょう。

 知人や友人たちは自ら「俺はこんなに

立派なことをしているんだ」という

押しつけがましい教えを、垂れて

いるわけではありません。

 私が勝手にそう受け取って

いるだけの話です。

 このように考えると、私達はちょうど

鏡みたいなものではないでしょうか。

 鏡は冷たいガラスでできていて、それ

自体にはたいした価値もありませんが、

太陽の光を受けると反射して明るさ

も熱も太陽の光と同じものを発光します。

 鏡が曇っているとせっかくの光は反射

せず、自らも発光もしません。

 私達に仏性があるというのは、鏡のように

太陽の光を映す性質を持ちながら、それ

を磨かないでいると宝の持ち腐れで、

一生を終わってしまうという事でしょう。

 仏の光を受けて歩んでいる人には、その

光が反射して自然に表情や態度になって

表れ、その反射した光は連鎖的に、他

の心ある人をも照らすのでしょう。

 詩人の坂村真民(さかむらしんみん)

(1909-2006)さんは学校を退職し

てから視力障碍でほとんど見え

ない状態になった時、「その

人」という詩を詠んでいます。

  暗い日々の 暗い夜々の

  半盲のあけくれのなかにも

  きえてはともり ともっては

  光るものがあった

  その人の名を呼ぶとき

  その人を念ずるとき

 私達の心の中に、そうした放射性の光で

ある、仏性が宿っていることに気づき、

仏を無心に念じたとき、私達も仏の

光に照らされて仏と変わらない花

が開き、三昧(さんまい)の境地

に入れるのではないでしょうか。

      ( 仏教伝道協会 みちしるべより )

  今回も最後までお読みくださり、

     ありがとうございました。 感謝!

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