大きないのちと合流し.また新しいいのちが生まれる 第 133 号

 当時不治の病と恐れられた結核にかかり、

死の恐怖に怯える幼い息子。

 寺の住職である父が、そんな息子に語っ

て聞かせた「風船の話」とは──。

 円覚寺管長の横田老師が語る

「いのちの授業」に耳を

傾けてみてください。

────────『今日の注目の人』──

◆ 円覚寺管長が語るいのちの授業 ◆

横田南嶺(円覚寺管長)

───────────────────

 仏教の死生観を説明する時に、

よく用いる話がある。

 ある僧が、小3年の時、結核にかかり

休学して病床に伏したという。

 まだ結核が死の病と恐れ

られていた頃である。

 幼い心にも「このまま死んでしまう

のでは」という恐怖感を抱いた。

 ある時には、暗闇の古井戸に落ちて

いく夢を見て悲鳴を上げて目を

覚ましたりしたという。

 死の恐怖である。

 そんな折に寺の住職である父が、優しく

背中をさすりながらこんな風船の

話をしてくれたという。

  「赤い風船が針で刺されて破れ

 ても心配はいらない。

  中の空気は外に出て行き、お空の

 空気と合流するだけ。

  いのちも同じで人は死んでも

 終わりにならない。

  大きないのちと合流し、また新しい

   いのちが生まれる」のだと。

 人が死に直面してはじめて、いのち

とは何かを真剣に考える。

 死は喪失であり、敗北ならば、恐ろ

しいばかりであるが、大いなる

いのちと一つなる、

 永遠なるものとつながっていると

気づけば、死の恐怖感から

も解放される。

 円覚寺の朝比奈宗源老師も幼い頃に

両親を亡くされて、死んだ親は

どこに行ったのか子供

ながら求められた。

 お寺にお参りして、涅槃図(ねはんず)

を拝んで、お釈迦様は死んでもしな

ないという説明を受け、死んでも

しなないとはどういうことか

明らかにしようと出家して坐禅された。

 そうして長年の坐禅修行の結果悟り得た、

死んでもしなない世界をこのように

分かりやすく表現されている。

※名僧・朝比奈老師の言葉は、本誌で

じっくりと味わってださい。

   『致知』 2016年4月号 

     連載「禅語に学ぶ」P116

  今回も最後までお読みくださり、

    ありがとうございました。 感謝!

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