2人は混沌と矛盾がまじりあった時代!不思議な運命の糸で結ばれていた = 2-1 = 第 774 号

 1人は勝算なき「ビール事業」に挑み、もう1人は

ベトナム戦争の最前線に身を投じる。

 生産量世界一のウイスキーをつくったサントリー

佐治無頼派作家開高の不思議な友情

がかなえた、巨大な夢。

 開高健(かいこう・けん)という男は、表面上

豪快にふるまっていたが、むしろ壊れやすい

ガラスのような感性を持ち、アメリカの

国民作家アーネスト・ヘミングウェイ

にも似て、性格の根本に繊脆な

ところがある。

 旧制中学だった戦中戦後に味わった辛酸は、

彼の心に大きな傷跡を残していた。

 彼の半身と言ってもいい「ある男」の生き方を

通じ、誰よりも高く跳ぼうとすれば土に額を

こすりつけ、地を這う蟻をながめねばなら

ないという確信が、彼のなかにあったのだ。

 その男の名は、佐治敬三(さじ・けいぞう)。

 サントリーの2代目社長として辣腕をふるい、

会社帰りにバーで一杯という文化を我が国に

根付かせ、「サントリーオールド」を生産

量世界一のウイスキーに育て上げた男である。

 174センチの長身に黒縁のメガネ、当時の

経営者としては異例の長髪をなびかせ、

早くから流行のカラーワイシャツを

着こなしていたダンディな紳士だ。

 サントリーがまだ寿屋と呼ばれていた時代、

佐治は失職中だった開高を拾い上げ、宣伝

部のコピーライターとして、はたまた

伝説のPR雑誌『洋酒天国』の編集

長として活躍する場を与えた。

 作家志望だった開高に、二足のわらじを

はくことを許したのも彼である。

 おかげで開高は在職中に芥川賞を受賞

することができ、本格的な作家

デビューにつながった。

 開高は佐治を必要としたが、佐治も

また開高を必要とした。

 やがて彼らは経営者と社員という

枠を越えた友情で結ばれていく。

 そんな2人の関係について、佐治は

次のように述べている。

「弟じゃない。弟といってしまうとよそよそしい。

それ以上に骨肉に近い、感じです」

 名経営者と言われる人間には、ある種

の「狂気」がつきものだ。

 万人が納得できるような経営戦略だけで競合

他社を出し抜けるほど世の中は甘くない。

 それに彼の「狂気」はスケールが違う。

 佐治は、「やってみなはれ!」を合言葉に、

新規事業にも積極果敢に挑戦を続けた。

 大波乱を巻き起こすような決断こそ、この

会社の長い歴史のなかに繰り返し立ち現わ

れたモチーフ(主題)であることを、

佐治は「断絶の決定の鎖」という

荘重な言葉を用いて表現したのだ。

 寿屋創業者の鳥井信治郎(とりい・しんじ

ろう)は、「赤玉ポートワイン」が売れに

売れていたときに、あえてリスクの高い

ウイスキー事業への進出を決めた。

 そして息子の敬三は、日本のウイスキーを世界の

五大ウイスキー(スコッチ、アイリッシュ、アメ

リカン、カナディアン、ジャパニーズ)の一角

に食い込むところにまで成長させる。

 しかし彼はそれだけで満足しなかった。

 「サントリーオールド」の売り上げが世界一

になろうというとき、あえてビール事業

への進出を決断するのである。

 これこそは、佐治敬三の「第二の草創期」を

現出するために下した「断絶の決定」だった。

 陰気なリーダーに求心力は生まれない。

 彼がいるだけで周囲が明るくなった。

 人が集まった、にぎやかになった。

 サントリー美術館、サントリーホールなどの

文化事業にも、惜しげもなく金を出した。

 でっかく儲けて、でっかく散じて、

世の中を明るく照らしたのである。

 サントリーという社名の由来が、ヒット商品で

ある赤玉ポートワインにちなんだ太陽(赤玉)

の「サン」と創業家の「鳥井」からとった

「サン鳥井」だというのはよく知られている。

 北康利『最強のふたり:佐治敬三と開高健』

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今回も最後までお読みくださり、ありがとう

            ございました。感謝!

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