資源もない・金もない・情報もない・技術もない = 2-2 = 第 2,645 号

 幸吉は、時間が来るとスイッチをひねって、

経済、政治などのニュースを聞いては事業

のタネにしていた。ラジオニュースを

ヒントに、自分で「考えを練りた

くって」結論を出していたのだ。

 独自に築いた幅広いネットワークから、新しい

情報を収集していた。幸吉は会話の中で、よく

「活きた」という表現を使った。「活きた

話はないか」「金や時は活かして使え」

「人は活かして使うものだ」といった具合である。

 70歳を過ぎても1日に30人近くの来客が次々に

あり、お客さんであろうと、部下であろうと、

地位や男女の別なく活きた話であれば、

熱心に耳を傾けた。

 終戦後、幸吉は面会を制限して、1人となって

日本の再建計画と真珠ビジネスの発展、国民

外交について、毎日毎日「練りに練って」

考え抜いていたのだ。

 幸吉は米国との取引のために、英語の勉強にも

勤しんだ。1946年2月から始まり「カムカム、

エブリバディ」で評判になった平川唯一の

英語講座をNHKラジオで聞くために、

電報でテキストを取り寄せた。

 「真珠王」幸吉は老いても情熱と生命力は衰え

なかった。「いろいろと苦労もしたが、一杯

八厘のうどん屋の倅から、運が幸いして

ここまでくることが出来た。そのうえ、

わしは、長生きしたので、今日、世界

の御木本になることが出来たのだ」と振り返る。

 渋沢栄一は言った。「人の生涯を重くするか、

軽くするかは、その晩年にある。人は晩年が

立派でありさえすれば、若いうちに多少の

欠点があっても、世間はこれを許して

くれる。若いうちが立派であって

も、晩年がよくなければ、その

人はつまらない人で終わってしまう」

 晩年の渋沢は、社会慈善事業に精力を傾け、

ほとんどすべての財産を投げ出している。

 69歳の時、自ら創立した59の会社と17の団体

役員から身を退き、76歳で完全に実業界から

引退した。その後は社会事業、慈善事業、

社会貢献事業に打ち込んだ。

 渋沢の『論語と算盤』では、その理念について、

次のようなことを書いている。

一、富をなす根源は何かといえば、仁義道徳である。

正しい道理の富でなければ、その富は完全に

永続することができない。

二、道徳と離れた欺瞞、不道徳な商才は、真の

商才ではない。

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  今回も最後までお読みくださり、

      ありがとうございました。感謝!

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