親父はこの1本数百円という焼き鳥で俺を育ててくれたんだ 第 2,127 号

予約の取れない店として知られる「賛否両論」。
店主の笠原将弘さんは、父親が始めた焼き鳥屋
を受け継ぎ、人気の日本料理店に生まれ
変わらせました。


本日は笠原さんにご登場いただいた『致知』
2015年3月号特集の一部をご紹介します。
笠原さんは父親の死によって客足が遠のいた
店をどのように変革していったのでしょうか。

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(笠原)

僕は28歳の時に、今度は父親ががんで倒れました。
一人っ子だったので修業を辞めて実家に帰ること
を決意したのですが、進行も早くて、戻る前に
父は亡くなってしまいました。


両親がやってきた焼き鳥店を自分一人でやって
いく。もちろん不幸なストーリーですが、発想
を変えて、俺は28歳でオーナーシェフになった
んだと無理矢理そう思うことにしたんです。
 
半年間くらいは同級生も面白がって来てくれ
たし、親父の頃からの常連さんも
応援の意味で足を運んでくれました。
でも、親父と話すのを楽しみにしてきた人たちは
やっぱり僕じゃ物足りなくて足が遠のいていくし、
同級生たちもそんなに金がないから
安い居酒屋チェーンのほうが安上がりです。


 気がつけば「あれ、最近うち暇だな」って。
閑古鳥が鳴くってこのことなんだろうなって
いうような状態になったんですよ。
そうなると余った食材を
どう使い回そうかなとか考えるんですよね。

焼き鳥の串を打っても残れば全部外して、甘辛く
煮込む。刺し身用に買った魚も、南蛮漬け
にして日持ちさせる。

そうなると、お客さんが来ない→売れ残る↓材料
が悪くなり、捨てる→儲けがない→いい材料が
仕入れられないという、完全な負のスパイラル
になっちゃうんですよ。

 
その時初めて、料理っていうのは食べてくれる
人がいないと、こんなにも切ないんだなと
思い知りました。

そして、親父はこの1本数百円という焼き鳥で
俺を育ててくれたんだ、親父はすごかったん
だと改めて思いましたね。


そこから1年くらい続きました。
借金をするまではいかなかったものの
材料が思うようには仕入れられないから、
メニューの黒板が埋まらないんですよ。
大きな空きスペースができるので、誤魔化す
ために「きょうは夫婦ゲンカしました」とか
「築地に行ったら定休日でした」と
日記みたいな一言を書くようにしたんです。


 

また、時間だけはたくさんあったので、焼き鳥
の他は安い野菜を使って手の込んだ料理を
つくったり、いろんな料理の本を研究して
フレンチをつくったり。

そういうメニューを黒板に書いていったら、
気になった人がいたんでしょうね、ちらほら
新しいお客さんが入ってくるようになりました。


いかにも頑固おやじがやっていそうな古い
焼き鳥屋だけど若いお兄ちゃんがやっていて、
シャレたレストランで出てくるような料理も
格安で出してくれる。そのギャップがよかったん
だと思います。


一度きてくれた人が、次は別な友達を連れて
きたり、会社の同僚たちを連れて来てくれ
るようになって、3年目には気づいたら
連日お客さんで埋まるようになっていました。

 
そうすると、今度はローカルテレビや雑誌の
取材も続くようになって、プラスの
スパイラルに入っていきました。

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 今回も最後までお読みくださり、

   ありがとうございました。感謝!

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