自然児のような謙澄は人を惹き付けて止まなかった 第 2,263 号

 言葉で日本を創り、日本を守った男がいる。

末松謙澄(すえまつ けんちょう)、福岡県

行橋市に、日本がアメリカと不平等

条約を結んだ翌年(1855年)に生まれた。

 明治になってもまだ江戸の匂いの濃かった時代、

日本という国の名前はあっても、ひとつの国と

しての形はまだ何も定まっていなかった。国

としての「歴史」も、「議会」も、「憲法」

も、「新聞」も、それらを書き記すため

の皆が分かる標準語としての「日本語」

すらなかった。

 西南戦争、大日本帝国憲法発布、日清・日露

の戦争と、謙澄はペンを武器に、我が国

を創り、我が国を守った。

 西郷隆盛への山縣有朋からの降伏勧告状、

大日本帝国憲法、下関条約の締結文の草

案を書き、日露戦争では日英同盟の強

化などによって日本の窮地を救った。

 幕末の漢学者・村上仏山に漢学の素養を叩き

込まれ、謙澄が上京したのは、明治四(18

71)年だった。

 高橋是清、福地桜痴、伊藤博文、山縣有朋、

井上馨と次々に政界、言論界の人々と懇意

になり、政治の中枢へと進んで行った。

 謙澄は、博士・大臣の位を得てもまったく若い

頃と変わらず、身なりなど気にせず、「ウワツ

ハツハツ」と大きな笑い声を上げて、

昔の政界の裏話をしたという。

 格好などには一切気を遣わず、どんなことが

あっても人に嫌な思いなどさせることがない

自然児のような謙澄は、人を惹き付けて

止まなかった。

 英仏独語に通じ、ふだんはほとんど無口で

ありながら、一旦演説を始めれば人の心を

奪ってしまうプレゼンテーションの能力

をもっていたというのである。

 謙澄は、今となっては、ほとんど誰も知ら

ない人となってしまっている。

 政治家でもあり、歴史家でもあり、ロビイスト

でもあり、日本美術史家でもあり、漢詩人でも

ありと、あまりにも多面的に活躍したために、

ひとことで紹介するのが難しいというのも、

謙澄の名前が忘れられた理由のひとつである。

山口謠司『明治の説得王・末松謙澄』

  (言葉で日露戦争を勝利に導いた男)

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 今回も最後までお読みくださり、

   ありがとうございました。感謝!

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