玉石混淆な情報のなかから.有用な情報を選び出す能力 = 2-2 = 第 2,725 号

 叩き上げの情報専門家、杉原千畝は、

1900年岐阜県に生まれた。かれは

学費にこと欠く苦学生だった。

 たまたま目にしたのが外務省留学生試験の

募集記事であった。語学の勉強を続けなが

ら、生活も安定する道が見えたのだ。

 杉原は中国の満州北部に位置するハルビンに

向かった。同地には、革命以前から多数の

ロシア人が暮らしていたので、ロシア

語を学ぶには好適な地であった。

 ハルビンで杉原は、熱心にロシア語を学び、

のちにはロシア人と比べても遜色がない

ほどのロシア語の達人へと成長していった。

 杉原はロシア語以外にも、英語はもちろん、

ドイツ語、フランス語、中国語も自由に操

る「語学の才能」に恵まれていた。しか

し杉原にとって、語学は補助的な武器

であり、外交官としての主力兵器は、

「情報収集能力」であった。

 杉原の場合には幸運にも若き日の彼の活動を

明らかにする、公的文書が残っているのだ。

1937年、在ソ連大使館へ赴任すること

を命ぜられたが、ソ連が入国を拒絶

したのだ。これに対して、杉原が

外務省に提出した弁明のための

報告書が残っているのだ。

 その報告書には、入省以来、彼が携わった

業務が時系列に簡潔にまとめてあるのだ。

当初は、日本人とロシア人の間に起っ

た揉め事の仲介に始まり、日本へ

の渡航を希望するソ連人の身元

調査、政治情報の収集、さら

には共産主義系の新聞記者

への工作と、20代の杉原

は早くも情報関係の任務に就いていた。

 インテリジェンス活動の重要な要素の一つに、

公開情報の収集・選別がある。公開されてい

る情報、たとえば新聞記事など容易に入手

可能であるが玉石混淆な情報のなかから、

有用な情報を選び出す能力も、インテ

リジェンスオフィサーに求められる

才能である。この点でも若き日の

杉原は、優れた能力を発揮している。

 ソ連の経済状況を多角的に分析した調書「ソビ

エト連邦国民経済大観」がそれである。1927

年、杉原が弱冠27歳の時にまとめた報告書

だが、非常に充実した内容で、外務省で

は活字印刷・製本して省内外に配布

したほどであった。

白石 仁章 (著)『戦争と諜報外交。

        杉原千畝たちの時代』

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  今回も最後までお読みくださり、

      ありがとうございました。感謝!

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