物を大切にする心を無くさない典型的な「日本の母」だった = 2-2 = 第 2,595 号

米長家親族会議の結果、長男だけは
高校まで行かせることになった。

ところが兄は、
高校へ進学すると世の中に
東大という大学があることを知った。
その大学は学費・寮費はタダ同然、金がなく
ても入学できるが、かなりの難関らしい。

それから兄は狂ったように勉強し始めた。
するとどうだろう。それまで「早く起きろ!」
「早く畑仕事へ行け!」と間髪入れず用事を
言いつけていた母が、兄が勉強しているときは
何も言いつけなくなったのだ。

ある日、私と弟が畑仕事をして
くたくたになって帰ってくると、
兄は机に向かって勉強していた。
たまりかねた私は母に食って掛かっていった。

「俺たちは畑仕事してきたのに、
なんで兄貴は仕事しなくていいんだ」

「兄は勉強してるじゃないか」

そうか、勉強すれば仕事しなくてもいいんだ。
それから私も本腰を入れて勉強を始め、兄が
東大へ入ると、私もすぐ下の弟もそれに続いた。
兄弟3人がそろって東大というとよほど
教育熱心な母親と思われるかも知れないが、
母に勉強しろと言われたことは一度もない。
奉公か東大か。私たちにはそれしか道が
なかったのだ。


四男の邦雄が将棋の世界へ進んだのも
同じような理由だった。

邦雄が小学校6年生のとき、
山梨でアマチュア将棋大会が開催され、
初段未満の部で優勝した。
すると翌日、大会で審判長を務めた
佐瀬勇次名誉九段がわが家を訪ねてきて、
邦雄を内弟子にほしいと言う。

内弟子になれば生活費はもちろん、
学費も小遣いも面倒見るという
申し出に否のはずがなかった。
多分、母は将棋の世界のことなど
まったくわからなかったに違いない。

このように兄が東大に合格し、邦雄が
内弟子として上京した昭和30年ごろから、
次第にわが家の運が開けていったように思う。

話は前後するが、昭和26、7年ごろ、
世にパチンコ屋が出来始めた。
当時パチンコの景品はたばこが主流で、
母は新規開店を聞きつけると、
遠くは甲府まで営業に出かけて行った。
母は商売の才覚があったのだろう。売り上げが
山梨県で2番目になって表彰されるまでになった。

しかし母は、商売が軌道に乗っても、私たちが
社会人になっても、邦雄が将棋で名人になって
もまったく変わらなかった。これまでと同じ
ようにつましくたばこ屋を続け、畑を耕した。
働くことを美徳とし、嘘や言い訳を嫌った。
物を大切にする心を無くさない典型的な
「日本の母」だった。


奇しくも享年は米寿の88歳。
いつまでも米長家を守ってくれるに違いない。

※本記事は『致知』2002年5月号
特集「このままではいけない」から一部抜粋・
編集したものです

  今回も最後までお読みくださり、

      ありがとうございました。感謝!

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