満洲を武力で制圧することに対して批判的だった = 2-2 = 第1,412号

 山本条太郎は1867年、福井市生まれ。山本が

2歳のころ、父は前藩主松平春嶽の秘書

となり、父に連れられて上京した。

 山本は小学校で学歴を終わっている。東大の

予備校のような開成学校に入ったが、母

が早く死んだことからグレた。

 将来を心配した叔父の吉田健三が三井物産横浜

支店に手代(一番下の奉公人)として入れた

のは14歳のときだった。吉田健三は後

の首相吉田茂の養父で、横浜の

英一番館(ジャーデインマセソン)の番頭を

務めたこともある、横浜が生んだ初期の富豪だった。

 英国人船長から英語を仕込まれたことが、山本の

上海ビジネスの原動力になったのである。明治

時代、中国を舞台に山本ほど活躍したビジ

ネスマンはいない。

 山本の商社マンとしての凄さは中国大陸で

新手を次々に開発したことである。

 上海で中国人の店に平気で入っていき、

布だの衣服だのの取引を申し込んだ。

 当時の中国では、出身地で固まっていた中国人

商人のネットワークに入らないと取引が

できなかった。しかし、山本は

中国人の懐に入ったのである。

 山本は「中国商人は信用できないというが、分か

り合えばメモ一つで取引ができる」というほど

人間関係を作った。山本がこれだけの人間

関係を築くことができたのは、相手の

中国商人にも儲けさせたからだ。

 山本は20年間の間、上海で中国ビジネスを開拓

した。東京の本社で役員になったのは明治42年。

翌々年には三井物産社長の益田孝に次ぐ

三常務の一人まで出世する。

 山本は1920年の総選挙で政友会

から出馬し、政界に転身する。

 1927年にできた田中義一内閣で、山本は満鉄総裁、

森恪は外務政務次官と揃って政府の要職に就いた。

 山本はもともと、満州を武力で制圧することに

対して批判的だった。長年のビジネス経験か

ら、植民地として経営するよりも、鉄道

経営などから利益をあげるほうが

日本経済にとってプラスだと

考えていた。田中首相

も同意見で、2人

は当時の張作霖政権と

歩調を合わせて、軍事に拠ら

ない経済支配を後押ししていた。

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 今回も最後までお読みくださり、

       ありがとうございました。感謝!

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