我が命の歩みとして生きるという修行 第 2,561 号

10月号の
特集テーマは「生き方の法則」。
トップ対談は「いま、ここ、自分を
精いっぱい生きる」と題して
長年、禅の修行を通して道を求めてきた
青山俊董氏(愛知専門尼僧堂堂頭)、
横田南嶺氏(臨済宗円覚寺派管長)
にご登場いただきました。

禅と聞くと難しいイメージがありますが、
お2人が修行を通して得られた「生き方
の法則」はとてもシンプルです。
その対談の一部をご紹介しましょう。

───────────────────

(青山)
私は修行には二つの姿があると思うんです。
一つには、いつからいつまで何をと「時」と
「事」を限る修行。例えば密教の千日回峰行は
そうですわな。これなどは特別な修行であり、
それなりにニュースバリューもありましょう。

ところが(永平寺を開かれた)道元様の修行は、
それとは対照的に時と事を限ることのない
二十四時間体制、一生体制の、
どの時間も、どの一息も掛け替えのない
我が命の歩みとして生きるという修行なのです

ですから道元様は洗面の仕方から
用の足し方からあくびの仕方まで
こと細かに定められました。
ちっともニュースバリューはありませんが、
だけど実行となるととても難しい。

それを道元様は「身肉手足を断つことは易き
ことなり。より来ることに心品をととのうるは
難きなり」とおっしゃいました。
より来ること、即ち一瞬一瞬、
目の前に起きることに対して
心を調えていくのは容易ではないと

(横田)
なるほど。

(青山)
マザー・テレサが最後に来日された時、
私が親しくさせていただいていたノートルダム
女子大の渡辺和子先生の教え子たちが
マザーの話に感動して、
「カルカッタに皆で会いに行こう」
という話になったそうです。

渡辺先生がそれをマザーに伝えたら、「金と
時間をかけてカルカッタまで来てくれなくても、
あなたの周辺のカルカッタに心を向ける人で
あってほしい」とおっしゃったと聞きました。

(横田)
特別なことをするより、
目の前の出来事に目を向けていく。
まさに道元禅師の教えと相通じるお話ですね。

(青山)
目の前の一つに遇あって、それを大事に行じて
いく、それを道元様は「遇一行修一行」
という言葉で示されました。
それは行き着くところ、
道元様を貫いた生き方であろうと思います。

致知出版社の人間力メルマガ

 今回も最後までお読みくださり、

      ありがとうございました。感謝!

スポンサードリンク

♥こちら噂の話題満載情報♥

ぜひ、いいね!を「ぽちっ」とお願いします

コメントをどうぞ

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

日本語が含まれない投稿は無視されますのでご注意ください。(スパム対策)

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください