念願の店に入門して始まった板前修業の厳しさは予想通りでした 第 2,174 号

ミシュラン2つ星店として人気の
日本料理「銀座・小十」。
店主の奥田透氏は高校時代に料理人を志され
ます。しかし、その頃の奥田さんは工作が
大の苦手で、とても不器用だったそうです。

奥田さんは、そういう自身の弱点を
どのように克服されたのでしょうか。

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(奥田)

私は昭和44年、静岡県に生まれました。
高校1年生の夏休み前から勉強についていけなく
なり、居酒屋や魚市場でアルバイトをする中で、
料理人という仕事に憧れを抱き始めました。


「学歴はなくても、料理人であれば努力が報わ
れるのではないか」
と、無限の可能性を感じていったのです。

私は、どうせ入門するのなら静岡で一番厳しく、
一番評価されている店にしたいと思いました。
知り合いの板前さんたちからは「この道は
殴られて蹴られて大変だぞ」「給料ももらえ
ないぞ」と冗談半分に言われましたが、「別に
命を取られるわけではないだろう」
とあまり気に留めませんでした。

反対に中途半端な店に入門し、
楽な修業生活に甘んじることにこそ
嫌悪感を抱いていたのです。

念願の店に入門して始まった板前修業の厳しさ
は予想通りでした。
6畳の部屋にある3つの2段ベッドの一空間が
唯一の自分の居場所だったことは衝撃で、のっけ
から包丁すら満足に扱えない現実に直面しました。

私は小さい時から工作など物をつくることが大の
苦手で、料理人の道を選んだ理由の一つは、その
コンプレックスを跳ね返すためでもありました。


入門したばかりの頃は、ちょうどタケノコの
シーズン。大量の花見弁当をつくるのに、
私もタケノコ切りに動員されました。
ところが、始めるや、すぐにバサッと指を
切ってしまい、絆創膏を貼って調理場に戻り、
また指を切るという繰り返し。


手の指や関節はいつも絆創膏だらけで
1つの指を18針縫ったこともあり、
いまこうして普通に動くのが奇跡です。

そういう状態が半年くらい続いたでしょうか。
私は自分が器用ではないと分かっていました
ので、1回でできなければ10回、
10回でできなければ100回、100回ででき
なければ1000回やろうと心に決めてやり
遂げました。

駄目な烙印を押されて、自分のプライド
だけは失いたくなかったのです。

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  今回も最後までお読みくださり、

    ありがとうございました。感謝!

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