家康はこの大湿地帯の下に眠る大穀倉地帯を見抜いた 第 2,188 号

 街はどのようにつくられ、賑わったか!? 東日本

へ行く要の地/モンゴル軍を破った福岡の地形/

「信玄堤」という画期的な治水事業/信長が

戦った比叡山と大坂の地形/今も現役の

「太閤下水」/家康が関東で発見した

宝/安倍川がつくった鉄壁の軍事

都市/日本堤と墨田堤の仕掛

け/幕末に広重が描いた

風景/全国の森林が消失する危機

 日本とベトナムとの統一戦線。13世紀、

モンゴルは騎馬軍団でユーラシア大陸

を制した。陸の軍団のモンゴルは

海には無知であった。

 朝鮮半島や対馬列島の海の民は、海でつながっ

た同胞であった。彼らはモンゴル軍に悲惨な

蹂躙を受けていた。海の民たちは、密かに

モンゴル軍への復讐を狙っていた。

 日本戦線の文永の役で、海の民たちはわざと

湿地が展開する福岡へモンゴル軍を導いた。

 ベトナム戦線では、海の民たちはモンゴル

船団を上手に満潮の白藤江に引き入れてし

まった。干潮時には船団は身動きを取れ

ず、徹底的にベトナム軍に打ち負かさ

れてしまった。それが白藤江の戦いであった。

 モンゴル軍は日本戦線とベトナム戦線の敗北

で、日本への第三次攻撃を断念し、ベトナム

への再進攻を断念せざるを得なかった。

 13世紀の日本とベトナムは、海の民を

介して共同戦線を敷いて、世界史上

最強のモンゴル軍にからくも勝利した。

 1590年、江戸に入った徳川家康は何をやって

いたのか。この時期、家康はフィールドワーク

に徹していた。家康は徹底的に関東一帯を見

て歩き廻っていた。この現地調査は、歴史

的に重要な意味を持つこととなった。

 家康は、この関東の調査で「宝物」を探し当

てた。それを手に入れれば、間違いなく天下

を確実にするとてつもない代物であった。

 発見した宝物は2つあった。1つは、目に

染みるような利根川の森林であった。

 もう一つは、大湿地の関東平野を、日本最大

の穀倉地帯に転換させる鍵となる

地形の発見であった。

 1590年、家康は秀吉によって関東に幽閉され

た。その家康が関東で目にしたのは、緑あふれ

る手つかずの利根川流域であり荒川流域であ

った。家康は日本一の森林地帯、今でいえ

ば大油田地帯を発見したのだ。

 厄介な利根川の洪水が江戸湾に来なければ、

江戸城の目の前に展開する干潟を埋め立て

干拓するのは簡単だ。この広大な干潟

は日本一の穀倉地帯になる。

 日本一の穀倉地帯で米を作る。米は最高の

金銭価値を持つ。他の大名の領地を武力で

奪わなくても、膨大な財産が手に入る。

家康はこの大湿地帯の下に眠る

大穀倉地帯を見抜いた。

 竹村公太郎『地形と気象で解く。

         日本の都市誕生の謎』

  を読み解く Amazon購入はこちら ↓ 

   https://amzn.to/3rBZCdB

  今回も最後までお読みくださり、

    ありがとうございました。感謝!

スポンサードリンク

♥こちら噂の話題満載情報♥

ぜひ、いいね!を「ぽちっ」とお願いします

コメントをどうぞ

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

日本語が含まれない投稿は無視されますのでご注意ください。(スパム対策)

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください