子どものときぐらいは、 貧しさや不自由さを教えなくてはならない = 2-2 = 第 369号

 岩崎弥太郎は、極めて短気で火の玉のような

男だった。

 社員を叱りつけることもしばしばだった。

 そんな弥太郎と重役との緩衝役になった

のが、弟の弥之助だった。

 このように彼は、いつも兄の陰になって、

社内の融和に尽力して会社の発展に

貢献していたのである。

 いわば、縁の下の力持ちだったのだ。

 丸の内を購入して計画した大事業とは。

 海から陸に上がった三菱だが、それを象徴

する事業がビジネス街の建設である。

 鉱業や造船業は、小規模ながらも兄の弥太郎

の時代にすでに着手されていた。

 しかしこの事業は、弥之助のはじめたもので、

やがて三菱の主事業のひとつとなっている。

 弥之助は、丸の内の地域を日本発のビジネス

街として建設しようともくろんだ。

 ニューヨークでの留学経験をもつ弥之助は、

すでにビジネス街なるものを

この目で見ていた。

 丸の内の土地の値段は、東京市の予算の

3倍である。

 そんな大金を投資し、さらに国内で誰も試みた

ことのないビジネス街をつくろうというの

だから、弥之助の経営は、兄の弥太郎

よりもずっと冒険的で大胆だった。

 弥之助は、「冒険をしなくては、大きな成功

は手に入らない」と考えたのである。

 大成功の陰には、小さな失敗はつきもの、そう

割り切ったところに、弥太郎には見られない

経営者としての弥之助の特徴があったといえる。

 性格的には温厚な弥之助のほうが、むしろ

大胆な経営を行ったのである。

 スパルタ教育をおこなった温厚な弥之助。

 温厚な紳士であった彼だが、岩崎一族の

男児については、厳しいスパルタ

教育を施した。

 東京本郷の寄宿舎で、一族の子弟は子どもの

時から親と離れ離れにして生活させた。

 寄宿舎では、風呂炊きや洗濯も自分たちで

やらせ、自活訓練をさせた。

 有名な英語教師や漢学者、思想家なども

招き、徹底的に勉学をさせた。

 食事も、粗食であった。

 のちに文部大臣になる三土忠造が、大富豪の

寄宿舎だというので興味を持ち、訪問した。

 しかし、館内に入ってみると、子供達のあまり

の簡素な暮らしぶりに驚いたという。

 子供達に贅沢をさせず、厳しく鍛えていく

のが、弥之助の教育方針であった。

 岩崎家の一族の者たちは、生まれながらに

して富貴を約束させている。

 ならば弥之助は、「子供の時ぐらいは、貧し

さや不自由さを教えなくてはならない。

 それによってはじめて、大人になって事業に

乗り出して巨万の富を手に入れた時、己の

慢心を抑えることができるのだ」と考えた。

 弥之助はかつて、甥の康弥にこう言った。

 「三菱の事業は一門のために

経営するのではない。

 お前たちの中に国家のことを考えず、岩崎家

のみを考える者があったなら、三菱は

潰したほうがよい。

 このことを、しっかり腹に入れておくがよい」

   河合敦

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 今回も最後までお読みくださり、ありがとう

            ございました。 感謝!

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