子どものときぐらいは、 貧しさや不自由さを教えなくてはならない = 2-1 = 第 368号

 カリスマだった創業者社長を継いだ二代目の

理想的なビジネス手腕とは! ?

 三菱の創業者として初代社長の岩崎弥太郎は

有名だが、そのあとを継いだ二代目・弥之助

の業績はほとんど世に知られていない。

 しかし、実は三菱財閥・三菱グループの基礎

を築いたのは、この弥之助だったのだ。

 初代社長ほどのカリスマ性はないが、頭脳明晰・

冷静沈着な弥之助は、三菱の危機を救い、

さらに発展させることに成功する。

 本書では、岩崎弥之助の生き方や経営手腕

を、余すことなく伝える。

 このように偉大な創業者の2代目は、

本当に浮かばれない。

 創業者の陰に隠れてしまって、その業績が

正当に評価されないからだ。

 私は、この岩崎弥之助という男は、弥太郎を

しのぐ偉大な経営者だと思っている。

 的確性を伴った即断即決は、はるかに兄を凌駕

しているし、その冒険的ともいえる諸事業は、

到底、弥太郎がマネできるものではない。

 また彼は、経営者として優れているだけでは

なく、スマートな人格者だった。

 温厚篤実な性格であり、富豪の社会的責任を

痛感し、文化財の保護や教育・芸術への

支援を惜しまなかった。

 さらに、政界のフィクサーとしての顔を

持っていた。

 政府の安定を願い、薩摩閥の松方正義と進歩党

の大隈重信を結びつけ、松隈内閣を誕生さ

せたのは、じつは弥之助であった。

 それから数年後、弥之助自身も日銀総裁に

なり、日本に金本位制度を導入し、日本

経済の安定に大きな貢献をしている。

 弥之助が生まれた時、兄の弥太郎は

18歳になっていて、ずいぶんと、

年の離れた兄弟だった。

 17歳になった弥之助は、井ノ口村から高知城下

に出て、土佐の藩校・致道館に入学している。

 ここは土佐藩士の子弟しか学ぶことのできない

教育施設だが、この頃の弥太郎は、土佐藩参政

の吉田東洋の知遇を得て、士分の資格を回復

し、土佐藩の下級役人になっていた。

 その兄のおかげで、弥之助は武士の教育を

受けることができた。

 やがて弥之助は、大阪の成達書院で漢学の

ほか、歴史や国学、洋学などを学んだ。

 弥太郎は、弥之助の教育には非常に

熱心だった。

 弥之助は、アメリカ留学の際、学校や大学

といった教育機関には通わず、ジェームス・

ホイスンなる人物から個人指導を受けた。

 その結果、弥之助の英語はみるみる

上達していった。

 ちなみに彼は後年、「英語を話せるように

なるコツは、日本人とは付き合わない

ことだ」と断言している。

 兄から叩き込まれた金銭哲学。

 若い頃の弥之助は、けっこう金遣いが

荒かったようだ。

 「一家の家計も管理できないような

ヤツは、大企業を経営することは

できない」と弥太郎は叱っていた。

 弥之助は、ときおり兄に怒られながら、経営の

細部についてまで兄のやり方を学んでいった。

   河合敦

『岩崎弥之助:もう一人の「三菱」創業者』

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 今回も最後までお読みくださり、ありがとう

            ございました。 感謝!

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