ひとりの人物がここまで出来るのかと誰もが感嘆する 第1,585号

 大正末期から昭和初期、大々的な琉球芸術調査

を行い、貴重かつ膨大な資料を残した研究者・

鎌倉芳太郎。稀代の記録者の仕事を紹介

する本邦初の評伝であるとともに、

に琉球文化の扉を開いた人々の姿、

そしてそれが現代に繋がるまで

の熱きドラマを描く。

 彼がテーマとしたのは、芸術、文化、民俗、

宗教、言語など、その幅広さでも、

他に例を見ない存在だ。

 1992年に復元された城は、いま、おおぜい

の観光客でにぎわっている。(2019年

10月焼失後再建企画中)

 戦争によってその命が潰えたかと思われた城

が「琉球の時代」の息吹を伝える

シンボルになった。

 首里城がこうしてふたたびすがたを見せる

までには、じつにドラマティック

ないきさつがある。

 首里城は大正末期に取り壊されることが

決定していた。そのとき城は琉球王国

崩壊から四十数年をへたまま、

くずれかかっていた。

 ところが、 香川生まれの鎌倉芳太郎という

琉球芸術を研究する20代半ばの青年が、

取り壊し阻止のために動くのだ。

 そのとき彼に、なにより城にとって、

きまざまな幸運が一瞬重なり、

難をのがれることになる。

 直後に首里城の保存が決まり、「国宝」の

指定を受け、昭和初期には大々的な修理

もなされ、城はよみがえった。

 鎌倉をひとことであらわすのは、

とてもむずかしい。

 あえていうならば、「琉球文化」全般の最高

のフィールドワーカーだろう。彼以上に、琉

球と対話し、観察し、記録した人間はいない。

 沖縄本島各地、宮古、八重山、奄美の島々を

くまなく歩き、琉球のすべてをとらえよう

とした彼がテーマとしたのは、芸術、

文化、歴史、民俗、宗教、言語

など、幅広いことも、ほかに例をみない。

 いま「鎌倉資料」として残るのは、81冊の

フィールドノート、多くの古文書の筆写や

複写。1236枚のガラス乾板、1269枚

の紙焼き写真。「紅型」(王国時代

からの染物)の型紙1114点、

裂地627点などである。

 その量のすさまじさに驚くが、フィールド

ノートや古文書の筆写の緻密な内容を知

ると、言葉をうしなうほどだ。

 ととのったペン文字でびっしりと書かれた

ノートを「求道者の記録のようだ」

と評す人もいる。

 とりわけ圧倒されるのは写真だ。建造物、

工芸品、絵画、人物、集落の全景。どれ

も対象を精確に写しとろうとする静

かな気魂に満ちている。ひとり

の人物がここまでできるの

かと、だれもが感嘆する。

 与那原恵『首里城への坂道:

   鎌倉芳太郎と近代沖縄の群像』

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今回も最後までお読みくださり、

     ありがとうございました。感謝!

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