その生気漲る青春期に思いを馳はせたものでした 第 2,524 号

倫理運動の創始者・丸山敏雄先生と
〝国民教育の師父〟と仰がれる森信三先生は、
直接の交流はないものの、
同じ時代を生き、共に現代人の指針となる
教えを世に広められました。

丸山敏雄先生の令孫である倫理研究所理事長
の丸山敏秋氏は若い頃、森先生と交流し、
その教えに傾倒していたといいます。
丸山理事長にとってお二人は
どのような存在だったのでしょうか。

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(丸山)

倫理運動の創始者・丸山敏雄(1892~1951)
の孫として生まれ、同じく在野の教育者として
生きられた哲学者・森信三先生(1896~1992)
に関心を抱くようになったのは20代前半です。

親しくしていた小倉の原田茂安翁から「あなた
のお祖父様と森先生は広島高等師範学校の
先輩後輩の間柄ではないでしょうか」と
尋ねられたのです。


原田翁は自由人として小倉では名の通った方
でしたが、森先生に傾倒され、その方を通して
先生のお名前を知ることになりました。

森先生の講話や言葉を『不尽叢書』として纏め
られていた寺田一清氏のことを翁に教えられ、
すぐに本を取り寄せました。
何度も読み返しながら、
森先生の人物の偉大さに驚かされました。


先生に自己紹介の手紙をお出ししたところ
すぐにお返事が届き、そこには「丸山さんは、
広島師範学校の学生寮の最上級生で、
寮長のような立場であられた。皆さんから
仰ぎ見られる先輩でした」と書かれていました。

祖父は自分が生まれる2年前の昭和26年に
亡くなっていますので会ったことはありません。
しかし、森先生より祖父の知られざる一面を
教えていただき、その生気漲る青春期に思いを
馳はせたものでした。


森先生の教えに啓発され、『一陰一陽』と
題する個人誌を出すようになったのは
29歳の時。
学生時代より親しんでいた中国思想だとか
当時の流行思想を書き連ねた手書きの冊子で、
1年半にわたって毎月出し続け、
それを森先生にもお送りしました。
すると、次のような感想を頂戴しました。

「さて、『一陰一陽』を甚大な関心をもって
拝読いたしましたが、それは私にとっても深い
〈感動〉の連続でした。

そして個人誌というには余りにも高級でしたが、
しかし今後は一つくらい
こうした物のある必要を痛感いたしました」

「また思想的にも東洋といったら仏教、
とくに禅のみに偏している観があります。
わが国の民衆には、儒教の影響がより以上に多く、
その為にも私はあなたの個人誌が
『一陰一陽』と名づけられたことに、
絶大な賛意を表するのです」

身に余る言葉に感極まりました。その頃、
森先生は脳血栓で倒れられた後で、お返事の最後
には「麻痺の右手もて」と記されていました。
先生と直接お会いすることは叶いませんでしたが、
先生が不自由な右手でこれだけの長文を
したためてくださったことに感動した私は、
以来、先生に傾倒するようになったのです。……

丸山理事長は、丸山敏雄先生と森信三先生の意外
な接点、興味深い共通点などについて述べられて
います。

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