仲間が自分の分も頼むぞと思って守ってくれた 第1,714号

茶道の普及のために国内外を飛び回る
裏千家前家元の千玄室氏、数え年98。
その力の源泉はどこにあるのか。

1月25日に東京プリンスホテルで開催した
新春特別講演会(弊社主催)での
ご講演内容をもとに追加取材を行い、
その人生観、仕事観を特別講話として
『致知』4月号に紹介させていただきました。

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私は自分がいくつまで生きようとか、
もっと長生きしようといったことは
一切考えたことがありません。

昭和二十年五月二十一日、
出撃命令を受けて出撃しようとした途端、
「出撃命令取り消し」と待機命令を受けた。

死ぬつもりでいたのが、引き下ろされた。

その時の空虚感は九十八歳になるいまも
続いています。亡くなった戦友に対して
いまもなお本当に忸怩たる思いなのです。
いまも私の後ろには多くの戦友たちの顔が
あります。この頃は毎晩のように出てきます。

靖國神社に行っても「千よー」という声が
聞こえてくる。しかし、そんな時、私の中で
こういう思いも同時に込み上げてくるんです。

「これまで元気で長生きできたのは、
仲間が生かしてくれたのだ
仲間が自分の分も頼むぞと思って守ってくれた」

と。私はそんな仲間の分まで頑張ろうと、
これまで一瞬一瞬を精いっぱい生きて
まいりました。
若い時、後藤瑞巌老師からいただいた
「破草鞋(はそうあい)」という
禅の公案があります。

破れ草鞋という意味なのですが、
私はこの言葉を自分が履いた草鞋が
ボロボロになって裸足になったとしても、
それに気がつかないくらい
歩き続けなさいという意味で捉えていました。

ところが、「それは答えになっていない」と。

では何かと思ったら、
「無」なのです。

つまり、破れ草鞋そのものすらないという
無の境地、これが一つの答えでした。

人間は裸で生まれてきて
裸で死んでいくじゃないか。
無になってしまえ。

これが「破草鞋」の教えだったのです。

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 今回も最後までお読みくださり、

    ありがとうございました。感謝!

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